高知城・板垣退助像

土佐出身の板垣退助は、自由民権運動の指導者のひとりで第2次伊藤内閣の内相。明治維新以前は土佐藩の藩士だったこともあって、板垣退助像が高知城の追手門をくぐってすぐの石段の上り口に立っています。

天守のビューポイントに立つ明治維新の立役者の像

天守を背にして立つ板垣退助
眼前には高知城・追手門が

板垣退助の銅像は昭和31年に再建されたもので、題字は当時の内閣総理大臣・吉田茂の書。
像の背後には樹齢200年というセンダンの大木が聳えています。
板垣像からの天守閣の眺めも見事。

板垣退助の像から階段を上ると杉の段で、藩主のお国入りや出駕の際にはここで出迎えたり、見送ったりした場所。

板垣退助と土佐藩

板垣退助(幼名:猪之助)は、天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として高知城下中島町(現 高知県高知市本町通2丁目)に生誕(生誕地には石碑が立っています)。
板垣家は武田信玄配下で活躍した有名な板垣信方(武田四天王)を祖とする家柄という。
板垣信方の孫・板垣正信は、武田氏滅亡後、遠江国掛川城主となった山内一豊に召し抱えられ、推挙した家老・山内備後守(乾和三)より「乾」の名を名乗るように。
板垣退助は、後藤象二郎とは竹馬の友で、坂本龍馬とは親戚にあたります

高知城・板垣退助像
名称高知城・板垣退助像/こうちじょう・いたがきたいすけぞう
所在地高知県高知市丸ノ内1-2-1
関連HP高知城公式ホームページ
電車・バスでとさでん交通で高知城前下車、徒歩10分
ドライブで高知自動車道高知ICから約5.5km
駐車場高知公園駐車場(65台/有料)
問い合わせ高知城管理事務所 TEL:088-824-5701/FAX:088-824-9931
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
板垣退助の墓

板垣退助の墓

東京都品川区北品川3丁目、高源院墓地にあるのが、板垣退助の墓。土佐藩・山内容堂の側用人(そばようにん)として頭角を表し、戊辰戦争でも活躍した板垣退助は、維新後に自由民権運動を推進、第2次伊藤内閣、大隈内閣で内務大臣などを務めた後、政界を引退

板垣退助銅像

板垣退助遭難の地碑・板垣退助銅像

岐阜県岐阜市大宮町1丁目、金華山(岐阜城)麓の岐阜公園の一角に立つのが、板垣退助遭難の地碑・板垣退助銅像。明治15年4月6日、自由党総理・板垣退助が岐阜中教院(ぎふちゅうきょういん)での演説を終え、会場を出たところで暴漢に襲われ、「板垣死す

板垣退助の墓(高知)

板垣退助の墓(高知)

高知県高知市薊野東町、高知・板垣山墓所にあるのが、板垣退助の墓。大正8年7月16日に死去した板垣退助は、東京・品川神社裏の旧高源院に埋葬されましたが、分骨が故郷の高知に埋葬され、高知の墓(分祀墓)の横には3番目の妻・鈴や三男・板垣孫三郎ら乾

高知城(高知公園)

高知城は、1601(慶長6)年から10年の歳月を費やし、土佐藩の初代藩主・山内一豊(やまうちかつとよ)が築城した平山城。現存する天守は、1727(享保12)年に城下の大火の延焼で焼失後、1753(宝暦3)年に再建されたもの。天守、詰門、多聞

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ