田原坂公園

田原坂公園

熊本県熊本市北区、西南戦争の激戦地、田原坂(たばるざか)の三の坂一帯を公園化したのが田原坂公園。明治10年に勃発した西南戦争。熊本城の救援に駆けつけた政府軍と西郷隆盛率いる薩軍が3月4日〜3月20日にかけて17日間におよぶ最大の激戦地となった場所が田原坂。戦没者は3万5000人に及ぶ、国内の戦史史上でも屈指の激戦。

西南戦争屈指の激戦地で、その結果、日本赤十字社が誕生

田原坂公園

田原坂は、下から一の坂、二の坂、三の坂と続き、もっとも激戦だった頂上部が三の坂。
官軍が薩軍の立て籠もる熊本城を攻略するためには、大砲を田原坂を越えて運び上げるしかなく、しかも峠越えの細い道が1本あるだけ。
それを絶対に阻止したい薩軍の間には、当然、激戦が生まれます。

田原坂公園にはその戦いの激しさを白い土蔵に無数に残した「弾痕の家」(復元)、戦没者慰霊塔、「熊本市田原坂西南戦争資料館」などがあり、200本の桜が植栽され、春には花見の名所としても賑わいます(桜の開花時期は、3月下旬~4月上旬頃)。
4月下旬~5月上旬頃には公園一帯に植えられたミヤマキリシマも開花し、見事。

田原坂の戦いで政府軍が1日に使った弾丸は32万発、あるいは34万発といわれ、「熊本市田原坂西南戦争資料館」に隣接する「弾痕の家」には、白い土蔵に無数の弾痕が残されています。

「熊本市田原坂西南戦争資料館」」には弾と弾が空中でぶつかりあった「空中かちあい弾」、当時使用の銃器類なども展示。
公園内には征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の崇烈碑のほか、「西南の役戦没者慰霊之碑」があり、西南戦争で戦死した官軍6923名、薩軍7186名、殉難者29名の名が刻まれています。

田原坂は「西南戦争遺跡」の一部として国の史跡に。

田原坂の戦いでは、高瀬にあった光蓮寺(現・玉名市)、延久寺など7ヶ所が野戦病院となり、2000名もの負傷兵が運びこまれました。
明治天皇は元老院議官・佐野常民(さのつねたみ)に巡検を命じ、田原坂の戦いで多くの傷病兵が満足な手当を受けられずに命を落としたことから、佐野常民は「博愛社設立請願書」を政府に提出。
これが不許可となったため、熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得、西南戦争と熊本・玉名は「日本赤十字社発祥の地」となっているのです。

「馬に乗った美少年像」と民謡『田原坂』の関係とは!?

田原坂公園

田原坂公園には「馬に乗った美少年像」も立っていますが、これは、西南戦争を生き残った人たちが酒宴の席で歌った酒盛歌をベースにした民謡『田原坂(豪傑節)』の歌詞にある美少年を像にしたもの。
大正時代、熊本留吉がレコーディングした歌詞に、
「雨は降る降る人馬(注/本来は陣馬とも)は濡れる、越すに越されぬ アラ田原坂 右手(めて)に血刀左手(ゆんで)に手綱、馬上豊かな アラ美少年 春は桜秋ならもみじ、夢も田原の アラ草枕 草を褥に夢やいずこ、肥薩の天地 アラ秋さびし」
とあり、美少年が登場します。
そのモデルといわれるのが薩軍の村田新八(むらたしんぱち)の長男、アメリカ留学帰りの村田岩熊で、19歳の若さで田原坂に散っています。

ただし、郷土史家は32万発、あるいは34万発ともいう弾丸が飛び交う近代戦で、19歳の将兵が馬に乗って進軍するはずがないとしています。
錦絵などにも馬上の兵が描かれていますが、それも現実的ではないとのこと。

平成2年に当時の植木町建立した像ですが、「西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴」とのことです。

永嶌孟斎『田原坂合戦の図』(明治10年刊)にも官軍側、薩軍側に馬上の将兵が描かれていますが、現実にはいきなり銃弾に倒れることに。

田原坂公園
名称 田原坂公園/たばるざかこうえん
所在地 熊本県熊本市北区植木町豊岡
関連HP 熊本市公式ホームページ
電車・バスで JR田原坂駅下車徒歩20分
ドライブで 九州自動車道植木ICから約7.5km
駐車場 220台/無料
問い合わせ 田原坂資料館 TEL:096-272-4982
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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