宇土城

宇土城

熊本県宇土市にある小西行長が築いた平山城(近世城郭)が宇土城(うとじょう)。豊臣政権下で水軍を率いた小西行長は、天正15年(1587年)の九州平定、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐の功から肥後国(現・熊本県)の南半分を領有し、天正17年(1589年)、宇土城を築城しています。

水軍を率いた小西行長が築城、加藤清正が大改修した城

宇土城

小西行長が築いた宇土城は、幅20mの水堀で囲まれた城山の頂上に本丸、その西に二の丸、三の丸を幅30m~40mという大規模な水堀で囲んだ近世的な城郭。
本丸の北側には、緑川に通じる運河があり、水軍の出撃、有明海からの物資の搬入などに活用されていました。

豊臣秀吉が小西行長に宇土城を築かせたのは、海外貿易の中心地であった八代(徳淵津)を睨み、3年後の文禄元年(1592年)に始まる朝鮮出兵など大陸への進出を視野に入れてと推測できます。
天草は人口の3分の2がキリシタンで、当初は天草五人衆と呼ばれる国人宗は、宇土城の城普請の要求に従いませんでしたが、その後、武力で制圧され、服属。
イエズス会の活動を保護し、高山右近の旧臣(キリシタン)を家臣に取り立てるなど、懐柔しています。

創建時の宇土城には本丸に3重の天守などが聳えていましたが、関ヶ原の戦いの際、東軍に与した加藤清正は、宇土城を攻略するなど九州の西軍勢力を次々と破り(宇土城攻略は「熊本の関ヶ原とも)、西軍の小西行長(石田三成とともに京・六条河原で処刑)の領する土地を併合して肥後一国の大名となっています。
加藤清正の小西領内への侵攻は、清正が関ヶ原の結末を知る10日も前のことだったので、先見の明があったのかもしれません。

加藤清正は、宇土城を隠居城と定め、本丸を1.5m盛り土するなど、大幅な曲輪の改修などを行なっています。
「慶長十三年」(1608年)という銘の瓦が出土しているので、その頃には改修を手掛けていたことがわかります。

その際、宇土城を領有した加藤清正が、宇土城の天守を熊本城へ移築し、宇土櫓となったという伝承がありますが、歴史的な裏付けはありません。
宇土櫓の平成元年の解体修理でも移築の痕跡は発見されず、熊本城大天守の隣にそびえる小天守が宇土城の天守だったとする説が有力になっています(熊本城小天守は、西南戦争で焼失し、移設なのかは確認できません)。

慶長16年(1611年)、加藤清正が宇土城に隠居することなく熊本で没すると、翌年、宇土城も破却されています。

寛永9年(1632年)、加藤忠広が出羽国庄内に配流となった際(加藤家は断絶)、細川忠利が肥後に入封し、天草島原の乱のような一揆勢力の籠城を恐れた幕府の命により(一揆軍の総大将、天草四郎の父・益田甚兵衛も宇土城下で暮らしていました)、さらに徹底して破却され、荒廃しています(最初の破却は石垣が残り、堀も残存していましたが、2度目の破却では石垣は大きく崩され、堀も埋められています)。

正保3年(1646年)、細川行孝(ほそかわ ゆきたか)が立藩した宇土藩は、藩庁を宇土陣屋に定めて城を築いていません。

現在、本丸跡が城山公園として整備され、石垣、堀などの一部が残っています。
城山公園の片隅には、西の方角を見つめる小西行長の銅像がありますが、加藤清正像は築かれていません。

宇土城
小西行長の銅像
宇土城
名称 宇土城/うとじょう
所在地 熊本県宇土市古城町
関連HP 宇土市公式ホームページ
ドライブで 九州自動車道松橋ICから約9km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 宇土市教育委員会事務局 TEL:0964-23-0156
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
熊本城・宇土櫓

熊本城・宇土櫓

西南戦争時に焼失を免れ、平成28年4月14日に発生した熊本地震でもさほど大きな被害を出すことなく、往時のままに現存する熊本城の建造物でもっとも大規模な櫓が宇土櫓(うとやぐら=平左衛門丸五階櫓)。本丸北西角にある3層5階の櫓で、国の重要文化財

 

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