伊賀国分寺跡

伊賀国分寺跡

天平13年(741年)、聖武天皇の詔(みことのり)で全国に造られた国分寺(金光明四天王護国之寺)のひとつが伊賀市にある伊賀国分寺。伊賀国分寺跡は、伊賀市街地の東方、名阪国道に隣接していますが、立体交差(高規格道路)のためドライブの場合は友生ICなど最寄りのICを利用することとなります。

古代、伊賀国にあった国分寺の跡

史跡公園となった敷地は築地跡と推測される東西220m、南北240m四方の土塁に囲まれていて、金堂、中門、講堂と塔の跡が確認されています。

中世にはすでに寺は廃絶していたため、江戸時代には三田廃寺跡(伊賀市三田)が国分寺と推定されたり、坂之下村(伊賀市坂之下)の楽音寺が国分寺を後継したりしていましたが、大正時代に伽藍の基壇が確認され、大正12年に国の史跡に指定されています。

礎石は戦国時代末に上野城下の菅原神社造営のため運び出された伝えられ、現存していません。

東側には長楽山廃寺跡(ちょうらくさんはいじあと)がありますが、これが国分尼寺跡(法華滅罪之寺跡)と推測されています。

条理地割りに沿って北上すると敢国神社(伊賀国一之宮)、伊賀国庁跡、南下すると森脇遺跡に達する点にも注目を。

三重県には伊勢国分寺跡が鈴鹿市国分町に、志摩国分寺跡が志摩市阿児町にあり、伊賀、伊勢、志摩と古代には3つの国分寺がありました。

伊賀国分寺跡
名称伊賀国分寺跡/いがこくぶんじあと
所在地三重県伊賀市西明寺長者屋敷
関連HP三重県観光連盟公式ホームページ
電車・バスで伊賀鉄道伊賀線桑町駅から徒歩25分
ドライブで名阪国道友生ICから約1km
駐車場なし
問い合わせ伊賀市教育委員会文化財課 TEL:0595-47-1285/FAX:0595-47-1290
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
志摩国分寺(志摩国分寺跡)

志摩国分寺(志摩国分寺跡)

天平13年(741年)に聖武天皇の詔で全国に造られた国分寺(金光明四天王護国之寺)の後継寺院が三重県志摩市阿児町国府(こう)にある志摩国分寺。往時の伽藍などは応仁の乱による兵火などで焼失、荒廃。現在は江戸時代末期建立の小さなお堂があるだけで

御墓山古墳

御墓山古墳

三重県伊賀市にある5世紀頃(古墳時代中期)築造と推測される前方後円墳が御墓山古墳(みはかやまこふん)。墳丘長188mは、三重県一はもちろん、東海・北陸地方では最大の規模を誇っています。仁徳天皇陵(大山古墳)、応神天皇陵(誉田山古墳)と同時期

長楽山廃寺跡(伊賀国分尼寺跡)

長楽山廃寺跡(伊賀国分尼寺跡)

伊賀市にある伊賀国分寺跡の東200mほどのところにあるのが、長楽山廃寺跡(ちょうらくさんはいじあと)。長楽山は寺号ではなく、一帯の地名。つまり長楽山地区にある廃寺という意味です。この古代にあった寺が実は聖武天皇の詔(みことのり)で建立された

敢國神社

敢國神社

社伝によれば、斉明天皇4年(658年)に創建の古社が三重県伊賀市一之宮に鎮座する敢國神社(あえくにじんじゃ)。伊賀国の一之宮で、伊賀の国の阿拝(あえ)郡に住んだ阿拝氏の祖神である大彦命(おおひこみこと)、古代に伊賀を拓いたという渡来人の秦氏

伊賀国庁跡

伊賀国庁跡

三重県埋蔵文化財センターと上野市教育委員会(当時/現在、上野市は伊賀市に)による発掘調査で判明した古代・伊賀国の政庁、伊賀国庁跡。木津川の支流、柘植(つげ)川右岸の段丘上に位置しています。政庁跡は東西、南北ともに41mの区画に正殿、前殿、脇

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