宝塚古墳

宝塚古墳

三重県松阪市宝塚町・光町にある古墳で、墳丘長は111mという伊勢地方最大の前方後円墳である宝塚1号墳、その北にある帆立貝形古墳の宝塚2号墳の2基で構成されるのが宝塚古墳。一帯は国の史跡に指定されています。かつて周囲には90基近くの古墳(円墳)がありましたが、現在は4号墳を残して都市化で失われています。

ヤマト王権の支援を受けた大王が伊勢湾の海上交通を掌握

宝塚1号墳は5世紀初頭、宝塚2号墳は5世紀前半頃の築造と推測され、2号墳は1号墳に葬られた人物の後継者の墓だと推測されています。

平成11年の発掘調査では、宝塚1号墳の祭祀(さいし)の場と推測される造り出し部分で、船上に立体的な飾り物を樹立する全長140cmという他に類例のない姿の船形埴輪など140点もの埴輪が出土し、国の重要文化財に指定されています。
出土した埴輪の一部は、松阪市文化財センター「はにわ館」で展示されています。

船形埴輪は、埋葬された大王の生前の業績を現したものなのか、あるいは魂をあの世に運ぶ「葬送船(そうそうせん)」なのか定かではありませんが、埋葬された王は、対岸の三河湾に臨む正法寺古墳(愛知県西尾市/西三河最大の前方後円墳)の被葬者とともにヤマト王権の支援を受けて、伊勢湾の海上交通を支配していたと推測できます。

宝塚古墳
国の重要文化財に指定される船形埴輪

伊勢から三河へ 古代の海上ルート

古代の伊勢湾には志摩から、東に浮かぶ島々を渡り、神島を経て伊良湖岬へ、そこから北上して三河湾を浮かぶ島々をわたり羽豆岬(知多半島最先端)あるいは矢作川(やはぎがわ)河口部(愛知県西尾市/ここに正法寺古墳があります)へという海上交通のルートが存在していました。
ヤマト王権が東国へ進出する際に、この伊勢湾入口と三河湾を結ぶ海上ルートの確保は重要なものだったと推測でき、西尾市吉良温泉の幡豆神社(はずじんじゃ)の社伝でも、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の際の、副将軍として軍を従えた建稲種命(たけいなだねのみこと)が駿河湾で逝去し、その遺体が幡豆神社の鎮座する宮崎に漂着したことに由来すると伝えられています。

宝塚古墳
名称宝塚古墳/たからづかこふん
所在地三重県松阪市宝塚120-1
関連HP松阪市公式ホームページ
電車・バスで松阪駅から鈴の音バス市街地循環線左回りで30分、山室山小学校口下車、徒歩5分
ドライブで伊勢自動車道松阪ICから約7.8km
駐車場50台/無料
問い合わせ松阪市文化財センター TEL:0598-26-7330/FAX:0598-26-7374
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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