伊勢国分寺跡

伊勢国分寺跡

天平13年(741年)、聖武天皇の詔(みことのり)で、諸国に建設された国分寺(国分僧寺=正式名は金光明四天王護国之寺)のうち、伊勢国(現在の三重県)に築かれた国分寺の跡が伊勢国分寺跡。三重県鈴鹿市国分町の鈴鹿川左岸の段丘台地上にあり、古代には近くに東海道が通る要衝の地で、南西7kmの地には伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)があります。

鈴鹿市は古代氏族・大鹿氏の本貫地!?

伊勢国分寺跡

聖武天皇は、国分寺建立の詔発布前年の天平12年(740年)、大宰府(だざいふ)で勃発した藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)の際に、伊勢国を巡幸していることからも伊勢国を重視していたことは明らかです。
一帯には弥生時代以降の遺跡が多く分布し、境谷遺跡や中尾山遺跡では弥生時代中期以降の竪穴住居、方形周溝墓などの遺構が発掘されています。

また、国分町周辺を根拠地とする豪族として、『日本書紀』敏達天皇四(574)年の条に記載の「伊勢大鹿首小熊」が挙げられます。
大鹿氏は伊勢国では天皇系譜につながる唯一の古代氏族として注目され、多気町とともに鈴鹿市がその本貫地の候補地となっているのです。
伊勢国分寺跡の東南、国分町南浦には国分寺が設置される以前の白鳳寺院(大鹿廃寺)の跡が見つかっています。

伊勢国分寺の寺域は180m四方で、金堂、講堂、僧坊などの遺構(基壇など)が発掘確認されています。
南門、中門、金堂、講堂、僧坊が南北に一直線に配されており、いわゆる東大寺式伽藍配置であることがわかっています。
国分寺には必須の塔(七重塔)や、鐘楼、経蔵などの遺構はまだ未発見となっています。

伊勢国分寺跡の寺域3万7000平米は、平成7年から3年間で全域の公有地化が行なわれ、歴史公園として整備されています。
伊勢国分寺跡の南側隣接地には「鈴鹿市考古博物館」が建ち、伊勢国府や伊勢国分寺など周辺の古代遺跡を詳しく解説、鈴鹿市内から出土した土器、石器、瓦などを保管・展示しています。

ちなみに国分寺(国分僧寺)とともに築かれた伊勢国分尼寺の遺構はいまだ未発見で、伊勢国分寺跡の真東に当たる国分町の集落の下に眠っていると推測されています。

伊勢国分寺跡
名称伊勢国分寺跡/いせこくぶんじあと
所在地三重県鈴鹿市国分町西高木
関連HP鈴鹿市公式ホームページ
電車・バスでJR河曲駅から徒歩20分
ドライブで東名阪自動車道鈴鹿ICから約10km
駐車場鈴鹿市考古博物館駐車場(70台/無料)
問い合わせ鈴鹿市考古博物館 TEL:059-374-1994/FAX:059-374-0986
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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