陸奥国分寺跡

陸奥国分寺(むつこくぶんじ)は、741(天平13)年、聖武天皇の発願で全国に建立された国分寺の一つで最北の国分寺。古代の陸奥国の国府や現在の仙台市にあり(郡山遺跡)、国府と軍事拠点は724(神亀元)頃、北の多賀城に移っていますが、国分寺はそのまま残されています。現在は伊達政宗が再興した陸奥国分寺が建っています。

聖武天皇の詔で創建した最北の国分寺

聖武天皇の発願で建立された陸奥国分寺ですが、奥州藤原氏の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が堂宇を再建するも、1189(文治5)年、源頼朝の奥州侵攻の兵火で焼失。南北朝時代には衰退しました。

創建当初の陸奥国分寺は、800尺(242m)四方という巨大な寺域を誇り、金堂(こんどう)を中心に回廊が巡らされ、中門・南大門・講堂・鐘楼・経蔵・食堂などの諸堂が建っていました。
寺周辺の住居は、竪穴式住居だった時代ですから、周囲を圧する壮観な光景だったと想像できます。

当時、陸奥国国分寺が建つ現在の仙台市以北は蝦夷(えみし)が住む地で、大和朝廷の北辺を守る多賀城とは東山道で結ばれていました。
木ノ下という一帯の地名は『古今和歌集』(こきんわかしゅう)に「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」と詠まれた歌枕に由来。
そのため芭蕉も『奥の細道』途中にわざわざ国分寺跡に立ち寄っています。

古代寺院の跡には伊達政宗が陸奥国分寺を再建

現在は往時(古代寺院)の礎石が発掘されるのみで、金堂跡には1607(慶長12)年、伊達政宗再建の薬師堂が建っています。

白山神社は創建時からの鎮護社と伝えられています。
白山信仰は、717(養老元)年、泰澄が加賀白山に登拝することに始まるので、陸奥国分寺創建以前にこの地に修験者の建てた白山社があったのかもしれません。

陸奥国分尼寺跡は、国分寺の東600mにありましたが、市街化が進み寺域や伽藍配置も判明していません。

陸奥国分寺跡
名称陸奥国分寺跡/むつこくぶんじあと
所在地宮城県仙台市若林区木ノ下
関連HP仙台市公式ホームページ
電車・バスでJR宮城野原駅から徒歩20分
ドライブで仙台東部道路仙台東ICから約5.4km。仙台南部道路長町ICから約5.6km。または、東北自動車道仙台宮城ICから約10km
駐車場30台/無料
問い合わせ仙台市観光課 TEL:022-261-1111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

陸奥国分寺薬師堂

奈良時代に聖武天皇の詔で創建された陸奥国分寺(むつこくぶんじ)の金堂跡に1607(慶長11)年、仙台藩主の伊達政宗(だてまさむね)が再興したのが薬師堂。藩政時代には薬師堂を中心に三院二十四坊を擁する大寺院が建っていました。薬師堂は桃山時代の

陸奥国分寺本坊

薬師堂の建つ陸奥国分寺跡の西に位置するのが近代的な伽藍の陸奥國分寺本坊。1607(慶長11)年、伊達政宗が建立した三院二十四坊のうち、藩政時代の陸奥国分寺運営に当たった三院の一つである別當坊(佛性坊)が前身。護国山という山号は創建以来の古代

 

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