野蒜築港

野蒜築港

宮城県東松島市の鳴瀬川河口にある明治時代の港湾施設の遺構が野蒜築港。明治政府が近代港湾として最初に着手した国家的プロジェクトがこの野蒜築港です。明治11年に着工、4年後に内港地区が完成し、国際貿易港を目指して外港部分の工事に取り掛かりましたが明治17年9月、台風が直撃し、突堤が崩壊。港湾施設建設は断念しています。

完成3年後の台風で崩壊した「幻の港」

内務卿(=太政官制における事実上の首相で、参議を兼任)・大久保利通(おおくぼとしみち/明治11年5月14日、東京紀尾井坂付近の清水谷で暗殺)に命じられたオランダ人技師コルネリス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)は、鳴瀬川の河口に貿易港を築き、岩手県側には野蒜港~北上運河~北上川、宮城県側には野蒜港~東名運河~松島湾~貞山運河~阿武隈川という河川と運河のネットワークを構築しようと考えたのです。

完成した内港地区は、東突堤(191m)、西突堤(236m)、北上運河の開削(延長11.8km)と閘門、東名運河の開削(延長3.3km)、新鳴瀬川の開削、内港泊地の浚渫(3ha、水深4.2m)、鳴瀬川のデルタ埋立による新市街地の造成(34.6ha)という構成です。

コルネリス・ファン・ドールンは、明治5年2月に来日。
大阪港、三国港などの港湾建設のため、ヨハニス・デ・レーケ、ジョージ・アーノルド・エッセルらの技師をオランダから招聘しています。
野蒜築港に関しては、明治9年に自ら視察し、明治11年に着工していますが、内港完成前の明治13年2月に契約切れで日本を離れています。
明治17年の台風で、港湾計画は挫折し、「幻の国際貿易港」になってしまいましたが、原因は、風や波に関する野蒜周辺での実地調査の不足、土砂の堆積が想像以上に多かったなど、コルネリス・ファン・ドールンの設計ミスだったことが推測できます。

国道45号の陸前小野駅近くに「野蒜築港跡(日本初の近代港湾計画の跡)」という標示があり、海岸方面に走ると、新造の巨大防潮堤に囲まれた地に「野蒜築港跡」記念碑などが建つほか、新鳴瀬川の両岸にレンガ造りの橋台跡(市街地との往来のため3ヶ所の橋が架けられました)が現存しています。
新造の防潮堤には「野蒜築港跡」と刻まれた大きな自然石の記念碑もあるので、一帯が野蒜築港跡だとすぐにわかります。

野蒜築港はほとんど機能しなかった港ですが、土木学会選奨土木遺産に認定されるほか、三国港(福井県坂井市)、三角西港(熊本県宇賀市)とともに「明治三大築港」に数えられています。

名称 野蒜築港/のびるちくこう
所在地 宮城県東松島市浜市樋場・野蒜下沼
電車・バスで JR陸前小野駅から徒歩30分
ドライブで 三陸自動車道鳴瀬奥松島ICから約6km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
明治三大築港とは!?

明治三大築港とは!?

明治維新後の日本の近代化に伴う近代的な港湾整備で、明治政府が招いたお雇い外国人によって東北、北陸、九州に築かれた港が明治三大築港。東北は仙台湾(石巻湾)の野蒜築港(のびるちくこう)、北陸は北前船の寄港地・三国港、そして九州は、三井三池炭鉱の

 

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