元記事はコチラ ▶ 【旅】”鳥取たのしー”ツアーに行ってきた(1日目その1) : イカズブログ
地震で被害のあった、鳥取県中部を中心としたプレスツアーが、11月16日(水)〜18日(金)に行われました。
主催は鳥取県東京本部、アテンドは一般社団法人プレスマンユニオン。
その後バタバタしてしまい、一ヶ月近くたってしまいましたが、ぼちぼちリポートしていこうかと思います。
1日目。
まず訪ねたのは、鳥取県西伯郡大山町の「妻木晩田史跡公園」。
読み方は、むぎ”ぱんだ”じゃありませんよ。むぎ”ばんだ”です。
しかも、いま資料見てて気づいたんですが、 むぎぱんだのむぎも”ぎ”じゃなく”き”じゃねーか!
×むぎぱんだ
○むきばんだ
えーい、ややこしい!
しかもいいづらい!
せめて”ばんだ”は”ぱんだ”にしてくれ!
と思ったら……
(むきぱんだオフィシャルHPより)
マスコットキャラクターは、「むきぱんだ」。
……もう、妻木晩田=むきぱんだでよくないですか?
さて、この妻木晩田(むきばんだ)。
名前は別として、実はすごいところなんです。
以下、プレスマンユニオン作成のガイド文によると……
☆弥生時代、大山山麓にあった「クニ」の中心
☆日本最大級の弥生時代の大集落跡
☆周辺の環境とともに大集落の跡を保存!
日本最大級の遺跡といえば、吉野ヶ⾥遺跡が有名ですが、この妻木晩田は、なんとその5倍! 島根県安来市からこの辺りにかけて、古代の「クニ」が 存在していました。
もともとゴルフ場にしようと山を切り開いたら、遺跡がでてきてびっくり! ということだったそうです。
ただし、現在、発掘調査されているのは、全体のたった10分の1。
ただの発掘調査だけだと、なかなかお金が出ないんでしょうね。
それでも、今現在まで、弥⽣時代中期末(西暦1世紀前半)から、古墳時代前期(3世紀前半)にかけての、竪穴住居跡が 420棟以上、掘⽴柱建物跡が500棟以上 、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓などの墳墓 が34基が、これまでに発見されています。
…というようなことを書いても、難しくてよくわからないので、とりあえず、遺跡をもとに作られた「妻木晩田史跡公園」の様子を、写真で見ていきましょう。
こちらが、公園の玄関口にある情報センター「弥生の館 むきばんだ」。シンボルマークを見て、”なんだ、やっぱパンダじゃねーか!”と思いましたが、竪穴式住居の柱の跡などをデザインしたものだそう。まあ、でも、このブログでは、”実はパンダ”ってことにしておきます。
中はこんな風になっておりましてですね
当時のことについて、いろいろお勉強できるわけです
縄文式土器を組み立てる立体パズルコーナーもありました。磁石でくっつくんです。
当時の人々の食生活を紹介するコーナーですが、ここまでリアルにしなくても…。
ああ、オッコト主さま…。
当時からPPAPが流行っていたんですね。
さて、弥生の館をあとにしまして。
歩いて3分くらいのところに、 当時の竪穴住居跡を再現したエリアがあります。
広っ!
1800年前の村を再現しているそう。
遺跡の上に40センチほど盛り土をして、それぞれの建物を復元しています。
建物の中もリアルに再現。
部屋の中で蒔を燻す(燻蒸という)ことで、湿度を下げていました。
何もしないと湿度は90%にもなってしまうそうです。
なお、一般的な竪穴式住居の広さは約20〜30平米。
そこに、4〜5人が暮らしていたようです。
村全体で、200人くらいが暮らしていた計算になるとか。
学芸員の方が丁寧に説明してくれました。
実は、住居の中心には、大きな穴が開いているのですが、 未だに何に使われていたかわかっていません。
焼けた炭の跡が残っていないので、煮炊きをしたわけではないようだし、 柱が立っていた痕跡もない。
まさかトイレ?
家のど真ん中にあったら臭いよな〜
……など、みんなでいろいろ想像して楽しみました。
(ちなみに弥生時代はトイレというものは無かったそうです。皆、茂みなど好きなところに行って、いたしていたそうですよ)
希望者はご覧のようにコスプレをして写真撮影もできます。
ちなみに二人はプレスマンユニオンのスタッフ。
内緒ですが夫婦です(内緒じゃないか)。
村を再現したエリアから少し高台に行った場所には、 竪穴住居跡を、発掘されたまま(表面をコーティングはしていますが)展示している場所がありました。
中に降りてコンサートをしたりすることもあるそうです。
(ちなみに写真のオジサマは私ではありません。もっと偉い人です)
こんな風に、通路を維持しながら、掘り進めていくのだそうです。
こんなお茶目な水道も。
さあ、いよいよ、妻木晩田史跡公園のメインスポット、「四隅突出型墳丘墓」であります。
こんなところ。
「四隅突出型墳丘墓」って?
山陰地方に特有の弥生時代のお墓で、文字通り、
“四隅が突き出ているお墓 ”
だから、 四隅突出型墳丘墓というのだそうです。
こんな感じ。確かに突き出てますね。
なぜ、突き出ているのかは、学芸員さんもわからないそうですが、
「昔は墓の上で祭儀をしていたので、ステージに上がる階段のようなものだったのでは」
と言っていました。
歌舞伎でいうなら、花道みたいなもんですかね。
こんな風に、祭儀は行われたいたのでしょうか。
(写真に写っているコスプレの人は、ツアーに同行していた島根親善大使でブロガーの西村愛さん。特別にモデルをお願いしました)
お墓の上でイベントって……ちょっと現代人の感覚では理解に苦しみますが、
こうした墓のほとんどが、当時の権力者のもの。
子孫がその権力を民に誇示し続けるモニュメントであり、 また、権力を受け継ぐイニシエーションのための舞台でもあったのかしれません。
今のように、墓=祖先を敬って拝むもの、とは違ったのでしょうね。
ま、そういう難しいことは抜きにしても、とにかく景色が最高!
美保湾と弓ヶ浜が一望できます。
当時の人たちは、こんなに景色のいい場所で、暮らしていたんですね。
ちょっと羨ましい、と思いました。
(次回は、鳥取たのしーツアー1日目その2。「漁港の食堂でカニ祭り!?」の巻)
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