東霧島神社

東霧島神社

神仏習合時代に、霊峰・高千穂峰を取り囲む聖地に祀られた霧島六所権現(霧島六社権現)のひとつが都城市の東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)。神仏習合の江戸時代までは東霧島権現で、現在の主祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。御神宝は伊弉諾尊の持ち物であったと伝えられる「十握の剣(とつかのつるぎ)です。

霧島六所権現のひとつで宮崎県屈指のパワースポット

東霧島神社

霧島盆地・諸県地方(もろかたちほう)を代表する奉斎山岳信仰の祈願所で、孝昭(こうしょう)天皇の御世に創建されたと伝えられています。
応和3年(963年)、天台宗の名僧・性空上人(しょうくうしょうにん)が霧島六所権現東御在所と定めています。
性空は、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家し、霧島山や脊振山で修行。
その後、書写山圓教寺を創建していますが、霊力があり、多くの霊験があったことが伝えられています。
現在では神社となっていますが、そのルーツは高千穂峰を仰ぐ山岳信仰で、修験者の拠点だったことがわかります。

その後、文暦元年(1234年)に霧島山の噴火で霧島神社が焼失した際には長尾山(現・東霧島神社)に遷座しています。
文明16年(1484年)、霧島神社は東西に分けられ東御在所が霧島東御在所両所権現(現・霧島東神社)、西御在所が西御在所霧島六社権現(現・霧島神宮)として建立されています。

江戸時代には、東霧島大権現と称していますが、権現とは本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)で、仏や菩薩が権(=仮)に姿を変えて(=垂迹して)日本の神として現れること。
つまりは、中世から近世にかけて、神仏習合の時代には厄除け開運の権現様として親しまれていたのです。
元和元年(1615年)、大坂夏の陣出陣に際し、島津忠恒(島津家久)が戦勝祈願で梵鐘を寄贈。

春の例大祭では鬼が一夜にして築いたという伝説がある石階段を神輿が「浜下り」を行なっています。
明治以前の神仏習合時代には別当・勅詔院もありました。

伊弉諾尊を失った悲しみの涙で凝り固まってできた石を、神剣で3段に切り裂いたのが境内の「神石」だと伝えられています。

東霧島神社
東霧島神社
霧島六所権現
江戸時代後期に薩摩藩が編纂した領内(薩摩国、大隅国、さらに日向国の一部)の地誌『三国名勝図会』には、以下の6ヶ所が霧島六所権現だとしています。
明治の神仏分離、廃仏毀釈の嵐は、明治維新を推進した薩摩藩内ではとくに厳しいものがあり、天皇制と神道を背景とした中央集権国家建設の目的に多くの名刹が廃寺の道を歩みました。
明治の廃仏毀釈で、神仏習合の権現だったものが、本地仏(本来の姿である仏様)を廃して垂迹神(仮に現れた神の姿)を祭神として、神社に代わったのです(多くの僧侶が神官に代わりました)。
霧島六所権現も現在では、霧島六社権現とも呼ばれていますが、正しい意味からすれば霧島六所権現です。

霧島山中央六所権現(別当・瀬多尾寺)=霧島岑神社/宮崎県小林市
夷守六所権現(別当・宝光院)=夷守神社/宮崎県小林市
狭野大権現(別当・神徳院)=狭野神社/宮崎県高原町
東霧島権現(別当・勅詔院)=東霧島神社/宮崎県都城市
霧島東御在所両所権現(別当・錫杖院)=霧島東神社/霧島東神社
西御在所霧島六社権現(別当・華林寺)=霧島神宮/鹿児島県霧島市
(注/別当=神社を管理した寺)

東霧島神社
名称 東霧島神社/つまきりしまじんじゃ
所在地 宮崎県都城市高崎町東霧島1560
関連HP 東霧島神社公式ホームページ
電車・バスで JR東高崎駅から徒歩10分
ドライブで 宮崎自動車道都城ICから約13.7km。または、高原ICから約13.9km
駐車場 500台/無料
問い合わせ 東霧島神社 TEL:0986-62-1713
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
霧島神宮

霧島神宮

2019年9月20日

 

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