奈良県明日香村、甘樫丘の東側、飛鳥寺の西側ににあるのが飛鳥水落遺跡。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=大化の改新後、天智天皇に)が造った日本初の水時計「漏刻(ろうこく)」(水時計を備えた時計台)の跡で、世界遺産への国内推薦候「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産にもなっています。
中大兄皇子が造った日本最初の漏刻(水時計)の跡
『日本書紀』によれば斉明6年(660年)「皇太子が初め漏れ剋を造り、人々に時刻を知らせた」とあり、これが発掘調査の結果、特異な正方形の基壇を持つ大形の建物遺構、中国に現存する元・明・清代の漏刻の受水槽と同様の漆塗木箱の痕跡が発見された、飛鳥水落遺跡ではと推測されています。
仕組みとしては飛鳥川の水を利用し、木樋(もくひ)で導水し、サイフォンの原理で一定量の水を垂らすことによって時を刻んだもの。
複数の水槽同士をつなぐ管によって構成され、一定の間隔で水を注ぐために、階段状に複数の「漏壺」(ろうこ)と呼ばれる水槽が設置されていました(水が注がれる最上段の漏壺の水位が変化しても、中間の漏壺の水位は一定に保たれます)。
冬季には氷結防止のため温めていたらしく、炭が出土しています。
漏刻を用いて正確な時間を計測することで、定められた時刻になると鐘鼓を鳴らし、飛鳥に居住する人々に知らせ、とくに官吏たちの勤務態勢が確立されたと推測できます。
つまり中大兄皇子の漏刻の建造は古代の官僚機構の構築と重なっていることになります。
推古8年(600年)、第1回目の遣隋使は、倭国が国家としての体を成していないことで、受け入れを拒否されたという苦い経験があり、急ピッチで国家体制の基盤が整えられ、その完成形ともいえるのがこの漏刻(水時計)です。
飛鳥水落遺跡と、その北に位置する石神遺跡は、地下の水路でつながり、石神遺跡は、噴水機能を有した石造物が出土することから、饗宴施設ではないかと推測されています。
正確な時を測る漏刻と時を知らせる漏刻台は、役人の勤務時間管理に不可欠な時間の概念とともに、中国の最新設計、製作技術と時刻制度を導入したことを示しています。
現在は史跡として発掘保存され、石で築いた一辺22.5mの方形の基壇が復元され、25本の柱が立っています。
飛鳥時代(律令制の確立)と漏刻の関係は!?
飛鳥時代とは、一般的に588年の飛鳥寺造営工事の開始、あるいは592年の推古天皇の即位に始まり、平城京へ遷都するまでの120年間ほどのこと。
この間に仏教(当時の僧侶は国家公務員)が貴族階級に浸透し、645年の乙巳の変を契機に、大化の改新の詔が発布され、庚午年籍(こうごねんじゃく)が作られるなど、天皇中心の国家体制づくりが始まっています。
大和朝廷が模範とした中国でも618年に唐が成立し、中央集権国家が設立しています。
水落遺跡が築かれた斉明天皇の御代は、朝鮮半島にあった百済が日本に援軍を求め、日本・百済連合軍が白村江の戦い(663年)で、唐・新羅軍に惨敗しています。
ちょうどそんな時代にこの漏刻は築かれたのです。
中大兄皇子が天智天皇として即位し、近江大津宮への遷都にともない、漏刻は大津宮でも使われました。
『日本書紀』天智天皇10年の記事から、飛鳥に置かれた漏刻が大津宮へ移されたと推測できます。
中国(唐)において、漏刻の設置、時刻の報知や、暦の頒布というものは、皇帝のみに許された権限でした。
日本も律令制度の導入にあたって、これを真似ているのです。
漏刻の誕生で、飛鳥人にも時間という概念が生まれました。
飛鳥水落遺跡 | |
名称 | 飛鳥水落遺跡/あすかみずおちいせき |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村飛鳥 |
関連HP | 明日香村公式ホームページ |
電車・バスで | 近鉄橿原神宮前駅から奈良交通バス飛鳥方面行きで8分、飛鳥下車、すぐ |
ドライブで | 西名阪自動車道郡山ICから約18km |
駐車場 | 明日香村埋蔵文化財展示室駐車場(50台/無料)を利用 |
問い合わせ | 明日香村教育委員会 TEL:0744-54-5600 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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