3世紀に三国時代の中国・魏の使節が倭国を訪れた際の記録が『魏志倭人伝』。弥生時代後期に小国が群雄割拠しながら、邪馬台国の配下となっていた時代です。使節は朝鮮半島から対馬、壱岐を経て、末廬國(佐賀県唐津市)へ。さらに陸路で伊都國(福岡県糸島市)を経て奴國(なこく)に到達しています。
「漢委奴國王」の金印で知られる奴國
伊都國からは次の国は意外に近く、
「東南至奴國百里」
(東南に百里で奴國)。
これまでの記述では千里余が50km〜60km、五百里が30kmほどなので、かなり近い場所だということが推測できます。
奴國といえば誰もがピンとくるのが、金印(きんいん)。
「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれた金印(国宝)が出土したのは志賀島(福岡県福岡市東区)で、福岡藩主黒田家に収められた後、昭和53年に福岡市に寄贈され、現在、福岡市博物館が所蔵しています。
一辺2・34cm四方という小型の金印の印面には、「漢」「委奴」「國王」という5文字が3行にわたって刻まれ、つまみのデザインは、蛇がとぐろを巻いて頭を印の中央部へ向ける姿。
しかも紐を通すような穴が開けられているという凝った造りです。
天明4年(1784年)、島に住む農民・甚兵衛が田に水を引くための溝を修理していたところ、偶然、発見したもので、福岡藩の儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)が鑑定を行ない、中国の歴史書『後漢書』東夷伝を根拠に、皇帝光武が西暦57年(弥生時代後期)に「倭奴國王」に贈ったものだと断定しました。
中国の王が授与した古代の印は、材質(玉・金・銀・銅)、つまみの形(龍・亀・駱駝・蛇)、印に通す紐の色(黄・紫・緑・青・黒)によって、贈られた人の立場を示す役割がありました。
蛇形のつまみを有した金印は、南方の異民族の国王という位置づけです。
「委奴國」の読み方については諸説ありますが、『魏志倭人伝』の記載の「奴國」とみて、倭の奴国と読むのが通説です。
金印の正確な出土地点は今も謎ですが、志賀島だということには変わりないので、志賀島が奴國の中心ということも考えられるかと思われますが、実は、奴國の王都は春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)を中心とする須玖遺跡群に特定されています。
出土地点が奴國から離れているので偽物説もありましたが、金の純度などの調査で、今では本物に間違いナシとされています。
奴國は2万戸を有する北九州の大国だった!
弥生時代の福岡平野を支配したのが、奴國で、大陸に向かう天然の良港・博多湾を有したことから、早くから大陸の文化を吸収できたという地の利がありました。
奴國の王都があった春日市は、弥生時代中期にムラが急増し、やがてクニを形成していきます。
明治32年、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)からは、前漢鏡30面のほか多数の副葬品が発見され、この発見を奴國王墓の発掘とすることが今では考古学上の定説となっています。
ただし、金印は西暦57年、奴國の王墓に眠る王族は3世紀なので、実は年代には200年の乖離がありますが、奴國が群雄割拠の戦乱の世を経て、邪馬台国時代になってもその勢いを保っていたことがわかるのです(ただし、年代の違いから別のクニと主張する人もいます)。
奴國には当時の日本では最大規模の青銅器工房があったことがわかっており、現在は「奴国の丘歴史公園」として公開されています。
奴國で大量に生産された銅矛(どうほこ)などは、西日本各地から朝鮮半島南部にまでもたらされており、奴國の影響力がいかに大きかったかを物語っていて、200年以上も繁栄した古代国家だった証にもなっているのです。
『魏志倭人伝』にも「有二萬餘戸」(2万戸の住居がある)と記され、これまでの對馬國(千餘戸)、一支國(三千許家)、末盧國(四千餘戸)、伊都國(千餘戸)に比べても別格に発展した大国だったことがよくわかります。
『魏志倭人伝』の旅(5)奴國の王都へ! | |
所在地 | 福岡県春日市岡本 |
場所 | 須玖岡本遺跡 |
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