天平13年(741年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のために諸国ごとに建立された国分寺ですが、越後の国分寺の位置はいまだに解明されていません。越後国の国府は、頸城郡(くびきぐん)にあったとされ、現在の上越市国府地区にあったことが有力。現在ある五智国分寺は、永禄5年(1562年)に上杉謙信が古式にのっとり再興したもの。
上杉謙信が越後国分寺の後継寺院として建立
上杉謙信は、平安時代の末に五智周辺に国府が移されたと推測し、後継寺院として五智国分寺を創建(再興)しています。
本尊が大日如来を中心として薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来の5体の五智如来像なのが五智国分寺という名の由来です。
ちなみに五智とは、大日如来の五つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作地)を意味しています。
現存する三重の塔は高欄などが未完の塔で江戸時代末期の建築。
ユニークなのは梵鐘で、世界初のステンレス製。
地元、住友金属直江津工場(現・新日鐵住金直江津製造所)の鋳造です。
境内には親鸞が越後流罪となった際に暮らした竹之内草庵跡も
境内には親鸞聖人の旧跡の竹之内草庵もあり、等身大の自刻像が安置されています。
本堂は平成9年に鎌倉時代の堂をモデルに青森ヒバ材を使って再建。
承元元年(1207年)、念仏停止(ねんぶつちょうじ)の勅令(専修念仏禁止=承元の法難)で僧籍を剥がされ、俗人・藤井善信(ふじいよしざね)として越後国府に配流された親鸞(居多ヶ浜に上陸)。
境内の五智如来像のそばに草庵を結び、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と称しています。
境内には草庵の跡を示す「竹之内草庵跡石碑」や、親鸞が池の水を眺めながら坐像(親鸞聖人坐像)を自刻したと伝わる鏡ヶ池、その坐像を安置する「親鸞堂」があり、近くには親鸞が墨をすり、生活用水にしたという養爺清水(ようやしみず)が残されています。
親鸞は俗人・藤井善信となって恵信尼と結婚生活を営み、「愚禿親鸞」(ぐとくしんらん)と名のり、在家止住の凡夫が救われる道を身をもって切り開きました。
竹之内草庵で1年ほど暮らし、竹ヶ前草庵(現在の本願寺国府別院の地)に移ったと伝えられています。
越後国府での7年間(42歳まで)は、親鸞の人生の中でもっとも苦しい時期でした。
建暦元年(1211年)、赦免(しゃめん)となった後に、信濃国の善光寺から常陸国(現・茨城県)に向かい、稲田の草庵(現・茨城県笠間市稲田の西念寺)を拠点として東国布教を開始します。
五智国分寺 | |
名称 | 五智国分寺/ごちこくぶんじ Gochikokubunji Temple |
所在地 | 新潟県上越市五智3-20-21 |
関連HP | 五智国分寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR直江津駅から頸城バス春日山線・佐内線・桑取線で7分、五智国分寺裏門下車、徒歩3分 |
ドライブで | 北陸自動車道上越ICから約6.5km |
駐車場 | 50台/無料 |
問い合わせ | 五智国分寺 TEL:025-543-3069 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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