長岡城二の丸跡(長岡城祉の碑)

JR長岡駅・大手口からのびる大手通り(国道351号)沿いの現「アオーレ長岡」の西側が、長岡城二の丸跡。この長岡城、もとは堀直竒(ほりなおより)が建設に着手。堀氏はその後、城の完成を見ずに村上藩へ移封され、代わって元和4年(1618年)、譜代大名の牧野忠成(まきのただなり)が入封。二の丸跡に長岡城祉の碑が立っています。

藩政時代には兵糧などを蓄えたのが長岡城二の丸

長岡城二の丸跡(長岡城祉の碑)
二の丸跡にある城内稲荷神社

長岡藩初代藩主・牧野忠成の築城以来、250年間牧野家の居城となった長岡城。
天守がない平城ですが、代わりに本丸に「御三階」という三重の櫓が設けられていました。

しかし明治元年・慶応4年(1868年)、北越戊辰戦争の際に長岡藩・河井継之助の非戦尽力にもかかわらず、激戦の地となり、焼き尽くされています。
本丸の跡地は、現在の長岡駅周辺。
明治31年6月16日に北越鉄道線長岡駅が開業し、ことごとく往時の姿を失いました。

長岡城二の丸跡には明治35年に宝田石油本社が建設され、さらに昭和元年の長岡市公会堂の建設により、内堀も失われています。
現在は、長岡市役所本庁舎などを擁する複合交流施設「長岡市シティホールプラザアオーレ長岡」の敷地に。
「アオーレ長岡」脇に、昭和4年建立の「長岡城祉」の石碑が残るのみです。

「長岡城祉」石碑の奥には城内稲荷神社が鎮座していますが、これはある雪の日、苧(麻のこと)をくわえた白狐が引いた線に従って、城の縄張りがなされたという「白狐伝説」にちなんで祀られたもの。
その城郭と縄張りが、兜の形をしていたことから「苧引形兜城」(おびきがたかぶとじょう)の別名があります。

『日本古城絵図』に見る長岡城

鳥羽藩主稲垣家旧蔵の城郭絵図集『日本古城絵図』に描かれた長岡城。
本丸北西の角に「御三階」が建ち、二の丸にも2棟の二重櫓が建っています。

『日本古城絵図 北陸道之部 越後国長岡之城図』
『日本古城絵図 北陸道之部 越後国長岡之城図』
長岡城二の丸跡(長岡城祉の碑)
名称長岡城二の丸跡(長岡城祉の碑)/ながおかじょうにのまるあと(ながおかじょうしのひ)
所在地新潟県長岡市大手通1-4-10シティホールプラザ「アオーレ長岡」前
関連HP長岡市公式ホームページ
電車・バスでJR長岡駅から徒歩5分
ドライブで関越自動車道長岡ICから約6.2km
駐車場アオーレ長岡地下駐車場(103台/有料)
問い合わせ長岡市観光企画課 TEL:0258-39-2344
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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