大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)

大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)

かつて八丁沖(八町沖)と呼ばれた広大な沼地の北西端にあたる、新潟県長岡市大黒町。ここが河井継之助率いる長岡藩軍と長州藩、薩摩藩を主力とする新政府軍の北越戊辰戦争の激戦地。現在ではその一角が大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)として整備されています。

記念碑には山本五十六の手による書が刻まれる

長岡城の北東に位置する八丁沖の低湿地は、当時、長岡城北東部からの敵の侵入を阻む、天然の要害の役割を果たしていました。
ゆえに明治元年・慶応4年(1868年)の北越戊辰戦争時、長岡城を占領した新政府軍は、一時この大黒村に前線基地を置いていたのです。
ここを中心に、約1ヶ月半もの激戦が続き、犠牲者は両軍で100名にも及んでいるのです。
激戦地の大黒村では焦土作戦により全戸が焼失。
残された遺体は、両軍の区別なく埋葬されています。

砲塁も築かれたといわれる跡地には現在、昭和12年に建立された「戊辰戦蹟記念碑」がありますが、その銘は地元出身の海軍大将・山本五十六によるもの。
「君仕忠勤三百年 勇猛至誠鉄石心
鋸嶽山頂名月夜 誰語維新大黒戦」
は、山本五十六の残した漢詩。

大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)
名称大黒古戦場パーク(大黒戊辰戦跡記念碑)/だいこくこせんじょうぱーく(だいこくぼしんせんせききねんひ)
所在地新潟県長岡市大黒町
関連HP長岡市公式ホームページ
電車・バスでJR押切駅から徒歩15分
ドライブで北陸自動車道中之島見附ICから約5.5km
駐車場5台/無料
問い合わせ長岡市観光企画課 TEL:0258-39-2344
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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