慈眼寺

慈眼寺

新潟県小千谷市平成、かつての寺町にある新義真言宗智山派の古刹が慈眼寺。山号は船岡山。歴史は古く、寺伝によれば、創建は白鳳時代にまで遡るとか。明治元年・慶応4年(1868年)の北越戊辰戦争では、慈眼寺で軍事総督・河井継之助と新政府軍の岩村精一郎が「小千谷談判」を行ないましたが決裂し、開戦へと進んでいます。

「小千谷談判」が行なわれた小千谷の古刹

慈眼寺本尊の聖観世音御菩薩は、大同年間、空海による彫刻と伝わります。
以来、船岡山観音院慈眼寺と称されてきました。

元禄時代には江戸に出張の本尊ご開帳も行なわれ、5代将軍・徳川綱吉も参詣したほど。

幕末の北越戊辰戦争時には新政府軍が小千谷に進駐、慈眼寺が薩摩藩の宿陣所にされています。
独自の中立路線を模索した長岡藩は、明治元年・慶応4年(1868年)5月2日、慈眼寺の上段の間で、藩の軍事総督・河井継之助が、新政府軍側の代表として現れた若き土佐藩士・岩村精一郎と対面。
これが後に伝わる「小千谷談判」ですが、若き岩村精一郎は結果は河井継之助のことがわからず、河井継之助の提案を引き伸ばし作戦と見て拒否。
この直後、河井継之助率いる長岡藩は奥羽列藩同盟に加盟し、徹底抗戦に突入します。

その会談が行なわれた本堂右手の座敷間は、現在「河井・岩村会見の処」として保存、内部には資料も展示されています。

慈眼寺
名称慈眼寺/じげんじ
所在地新潟県小千谷市平成2-3-35
関連HP慈眼寺公式ホームページ
電車・バスでJR小千谷駅から徒歩25分
ドライブで関越自動車道小千谷ICから約1.6km
駐車場5台/無料
問い合わせ慈眼寺 TEL:0258-82-2495/FAX:0258-89-8235
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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