確実に誤解を生む! まさかの天守閣(27)久留里城|千葉県

久留里城

実は千葉県はまさかの天守閣(模擬天守)の宝庫です。そのひとつが千葉県君津市にある久留里城(くるりじょう)。戦国時代に里見義堯(さとみよしたか)が本拠とし、安房里見氏の最盛期を築き上げた城。江戸時代には3万石の小藩ながら久留里藩の藩庁となった城で、今も見事な「天守」がそびえています。

黒田直純が築いたのは2層2階の望楼式天守

久留里城まつり
11月に行なわれる『生きた水の里 久留里城まつり』

里見義堯は、久留里城を本拠に房総半島の領有を実現しているので、いかにこの地が要衝だったのかがよくわかります。
地図を見てみると、南房総のまさに中心。

豊臣秀吉の小田原攻めの直後、関東に入封となった徳川家康は、榊原康政(さかきばらやすまさ=徳川四天王)の嫡男・大須賀忠政(松平忠政)が城主となっていることからもその重要性が認識できます。

関ヶ原の合戦後、土屋忠直(つちやただなお)が藩主となり、土屋家3代、黒田家9代が藩主となりますが、いずれも譜代大名です。

久留里城跡には、天守台と呼ばれる土壇がありますが、この天守台は、寛保2年(1742年)、上野国・沼田城(現・群馬県沼田市)から黒田直純(くろだなおずみ)が3万石で入城した際に築いた天守の跡と伝えられています。
黒田直純は幕府から久留里城再建のため、5000両を受け取り、土屋氏転封後に廃城化していた城を再整備、その際に2層2階の小ぶりな天守(櫓)を構築したのです。

土台が石垣でないことから、さらには礎石の配列状況などで、初重(1階)の上に高欄付きの望楼を載せた比較的に簡易な「望楼風」天守だったと推測され、櫓といっても過言ではない感じだったはずです。

2層3階の独立式望楼型天守として再建

本丸への登城道(整備された山道)

現在の天守は、昭和54年に完成した鉄筋コンクリート造りの建物(2層3階)。
天守台の横に建てられていて、まさに模擬天守。
しかも往時の天守が2層2階だったのに対して、こちらは2層3階。

実は、昭和54年の建設時に浜松城の復興天守(コンクリート製、昭和33年完成)をモデルにしたから。
実は浜松城の復興天守も、まさかの天守閣のひとつで、名古屋工業大学名誉教授・城戸久の設計で、丸岡城天守がモデルに。
実際の浜松城の3分の2の大きさという代物です(史実の天守よりもかなり小ぶり)。

その浜松城を真似ているので、丸岡城にも似た天守ということになりますが、まるで歴史的な考証はありません。
共通性を探すと、江戸初期の形式を伝える「独立式望楼型天守」という点で、あくまで「なんちゃって天守」のレベルです。
内部も博物館というわけでもなく、展望台としての機能が重視されています。

それでも久留里城下から見上げる姿はかなり立派で、久留里の観光的なシンボルになっています。
久留里城三の丸跡まで東京駅から高速バス「アクシー号」、千葉駅から「カピーナ号」も結んでいるので、意外に手軽に登城することができ、週末の観光にも最適です。

確実に誤解を生む! まさかの天守閣(27)久留里城|千葉県
名称 久留里城/くるりじょう
所在地 千葉県君津市久留里448
電車・バスで JR久留里駅からタクシーで5分
ドライブで 首都圏中央連絡自動車道木更津東ICから約10km
駐車場 130台/無料
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

久留里城

千葉県君津市久留里、久留里市街の東に位置する標高140mほどの尾根筋を利用した山城が、久留里城。戦国時代には上総(かずさ)に進出した里見氏の小田原北条氏に対する軍事拠点となった地。現在の天守は昭和53年に復興した模擬天守で、展望台的な役割を

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