2026年7月19日〜7月29日に韓国・釜山で開かれる予定の世界遺産委員会で正式登録の世界文化遺産「飛鳥・藤原の宮都」。飛鳥時代の19遺跡で構成される文化遺産ですが、そもそも飛鳥時代とはいつのことでしょう? 実は歴史の授業で学んだその定義をちゃんと覚えている人は少ないのではないでしょうか。
飛鳥時代、実は岡倉天心が定義した!

飛鳥時代は、推古天皇が即位した593年(推古天皇元年)から、元明天皇により藤原京から平城京へ遷都された710年4月13日(和銅3年3月10日)までの時代。
聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子になったのも593年(推古天皇元年)だといわれています。
冠位十二階、十七条憲法を制定、仏教の興隆、小野妹子(おののいもこ)に代表される遣隋使の派遣など、国造り(中央集権国家)の基本ができあがった時代。
中国の隋や唐の法体系を基に、律令体制が完成するのも7世紀後半以降なので、律令体制の芽生えから完成へのプロセスだった時代です。
奈良県高市郡明日香村周辺の「飛鳥」に都(首都)があったことが、飛鳥時代という名の由来で、岡倉天心(おかくらてんしん=美術史学研究の開拓者、明治時代に日本の伝統美を再認識)と関野貞(せきのただし=建築史学者、美術史、考古学にも精通、平城宮址を発見)とによって提案された時代名です。
岡倉天心は、平城京遷都までを飛鳥時代としましたが、関野貞は大化の改新までとし、それ以降を白鳳時代と定めたので、今でも歴史教科書などでは併記されています。
律令国家が完成した時代、つまり「日本国」の始まり

実は飛鳥時代の始まった頃には、天皇という名もまだなく、大王(おおきみ)の時代で(飛鳥浄御原令編纂の7世紀後半まで)、大王墓として古墳が築かれた時代の終末期にもなります。
大王が没すると古墳に埋葬されていましたが、ヤマト王権の権威を象徴する前方後円墳ではなく、中国文化の影響を受けた方墳、天皇を中心とする世界観を視覚的に表現した八角墳などに変化しています。
つまり、コンパクトで、しかも中央集権的なイメージの墳墓ということに。
墳墓に至るまでの国を挙げての大変革が推進され、宮殿の周囲には官衙(かんが)と呼ばれる役所と寺が建ち並んだのが、飛鳥京(飛鳥宮)です。
官衙や寺院が林立し、飛鳥盆地が手狭な状況となったため、694年(持統天皇8年)、持統天皇が飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや=7世紀後半天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮殿)から藤原宮へと王宮を遷しています。
藤原宮では中国の条里制に真似た道路網を整備し、中国からの使者にも中央集権国家の完成した姿を示したのです。
さらに900m四方の宮城は、高さ5.5mの大垣が囲み、内裏(だいり=天皇の日常生活の場)、大極殿(だいごくでん=朝廷の正殿)、朝堂院(ちょうどういん=儀式や謁見を行なう政庁)が配され、中国式の宮殿が生まれました。
それまで散在していた官衙(役所)もひとまとめに機能的に集約化され、官衙群を形成、こうして形式的には律令国家としての完成をみたのです。藤原宮跡・大極殿院南門

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