出島和蘭商館跡

出島和蘭商館跡

長崎の出島は、寛永13年(1636年)に築造され、安政6年(1859年)に日蘭通商条約の締結でオランダ商館が閉鎖されるまで218年間にわたり、幕府の鎖国政策のなかで唯一西欧に開かれていた場所。平成8年から出島の復元が始められ、出島和蘭商館跡に、「ヘトル(商館長次席)部屋」などが復元されています。

江戸時代の出島のオランダ商館を再現

出島は「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資によって完成した人工の島。
現在では周囲が埋め立てられわかりづらいのですが、長崎港に注ぐ中島川を遡った場所に位置していました。
島内にはオランダ商館員の居宅、倉庫など数十棟が建ち並び、家畜が飼われ、珍しい植物が植えられていました。

毎年、長崎・出島には2隻のオランダ船が夏(7月〜8月)に来航し、その年の晩秋(11月~12月)に帰途に付いていました。
その間は、多くの船員たちが居住していましたが、それを除く8ヶ月あまりは、商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1人~3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使の合計15人前後が滞在していました。

平成8年から出島の復元が始められ、「一番船船頭部屋」、「一番蔵」、「二番蔵」、「三番蔵」、「料理部屋」、「乙名部屋」、「ヘトル(商館長次席)部屋」、「拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)」、「旧出島神学校」などが一般公開されています。
一番船船頭とは貿易品を運ぶオランダ船の船長のこと。
つまり「一番船船頭部屋」は、オランダ船船長が滞在した部屋で、当時の室内が再現されています。

出島和蘭商館跡は国の史跡になっています。

画像協力/(一社)長崎県観光連盟

出島和蘭商館跡
名称 出島和蘭商館跡/でじまおらんだしょうかんあと
所在地 長崎県長崎市出島町
関連HP 出島公式ホームページ
電車・バスで JR長崎駅から正覚寺下行き路面電車で5分、出島下車すぐ
ドライブで 長崎自動車道長崎ICから約4km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 出島総合案内所 TEL:095-821-7200
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
出島和蘭商館跡・ヘトル部屋

出島和蘭商館跡・ヘトル部屋

鎖国時代に日本と西欧を結ぶ唯一の窓口だったのが長崎・出島。扇形をした人工島は寛永18年(1641年)に平戸のオランダ商館を移してから安政の開国までの220年間、阿蘭陀屋敷と呼ばれていました。出島和蘭商館跡には当時の商館、倉庫などが復元されて

出島和蘭商館跡・旧長崎内外クラブ

出島和蘭商館跡・旧長崎内外クラブ

長崎県長崎市の出島のオランダ商館を復元した出島和蘭商館跡。そのなかにある洋館、旧長崎内外クラブは、開港後の明治36年、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として、イギリス人貿易商のフレデリック・リンガーによって建てられたもの。広々としたバ

出島和蘭商館跡・旧出島神学校

出島和蘭商館跡・旧出島神学校

長崎県長崎市、国の史跡となった出島和蘭商館跡(オランダ商館の復元)にある旧出島神学校は、明治11年に建てられた出島英和学校、聖アンデレ神学校の校舎として使われた出島神学校を修復したもの。2階には17世紀の商館員たちの遊戯施設だったビリヤード

出島橋

出島橋

長崎県長崎市を流れる中島川に架かる橋が、出島橋。長崎市道江戸町千馬線の橋で、明治23年に中島川の河口に架設された新川口橋が、明治43年に現在地に移設されたもので、現存する道路橋のなかでは最古の橋。土木学会選奨土木遺産に認定。東側は出島和蘭商

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ