沖縄県那覇市若狭1丁目、波の上ビーチ、波上宮近くにある、対馬丸事件の犠牲者の鎮魂とその歴史を後世に伝える施設が、対馬丸記念館。事件を正しく後世へ伝える為に疎開する学童775名などを乗せた対馬丸が撃沈されから60年目、平成16年8月22日に開館しています。
対馬丸事件の惨禍を後世に伝えるミュージアム
太平洋戦争末期の昭和19年8月22日、沖縄から本土への疎開者を乗せた日本郵船「対馬丸」(6724t)は、鹿児島県悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号(BOWFIN=ハワイ真珠湾のボーフィン記念公園内に展示)の魚雷攻撃を受け沈没(魚雷命中から11分後の22:23頃、大爆発を起こして沈没)。
乗船者約1800名のうち学童775名を含む1418名(氏名判明者数)が亡くなるという惨事となりました。
沖縄から出航した延べ187隻の疎開船(約8万人)のうち、最大の惨事がこの対馬丸撃沈事件。
この悲惨な歴史の記憶を共有し、平和と命の大切さを子どもたちの目線で伝えていくことが必要との主旨で建設されたのが対馬丸記念館です。
1階の常設展示室には「対馬丸」の時代を知る手がかりとなる、昭和19年当時の教室風景を再現。
甲板員として昭和17年2月から対馬丸に乗船していた中島高男さんの協力で船室も再現されています(本来は物資輸送の貨物船なので、人員輸送には不向きで、船倉は劣悪なサウナ状態だったとか)。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいましたが、沈没した事実を話してはいけないと箝口令が敷かれ、戦時下では公になることはありませんでした。
正確な記録が残されていないため、漂流後に救助された生存者の証言も貴重です。
陸軍徴傭船となり軍事輸送、疎開輸送に使われた「対馬丸」
「対馬丸」は大正5年、日本郵船が開設したニューヨーク航路の第一船となった貨物船(グラスゴーのラッセル造船所で建造)。
欧州航路に就航し、第一次世界大戦の物資などを輸送し利益を上げ、その後はカルカッタ線などに使われていました。
昭和16年9月21日、陸軍に徴用され、沖縄戦の際には陸軍徴傭船となり、往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に使われていました。
当時の海軍にはすでに疎開輸送に軍艦の投入する余裕はなく、無防備な貨物船を使っていたのです。
船団を組んで本土へ向かった対馬丸ですが、航行速度の遅い対馬丸は潜水艦にとっては格好の目標となってしまいます。
「被雷後約十分間にして船体いよいよ沈没に瀕するや、船長および連絡将校を最後として各自をして海中に飛び込ましたるがついに二十時二十二分ころ船尾をひねりつつ沈没せり」(『遭難報告書』)
生徒たちも救命道具を身に着け、脱出に成功した人もいましたが、接近中だった台風の影響で、波が高く多大な犠牲を生んだのです。
対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれましたが、疎開先であるはずの地から便りがないことから事件が露呈し始め、昭和25年10月、ようやく遺族会が発足。
昭和28年、波之上護国寺に慰霊碑「小桜之塔」が建立されています(昭和34年に若狭地区に移設)。
対馬丸記念館 | |
名称 | 対馬丸記念館/つしままるきねんかん |
所在地 | 沖縄県那覇市若狭1-25-37 |
関連HP | 対馬丸記念館公式ホームページ |
電車・バスで | ゆうレール県庁前駅から徒歩15分。または、那覇空港からタクシーで5分 |
ドライブで | 那覇空港から約3km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 対馬丸記念館 TEL:098-941-3515/FAX:098-863-3683 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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