沖縄県八重山郡竹富町、沖縄県道215号白浜南風見線の南端(南風見豊原地区=日本最南端のバス停「豊原」があります)から海岸沿いの農道を西に走った終点が、南風見田の浜(はいみだのはま)。リーフ内は遠浅で波も穏やだが、リーフ際では沖出しの波が強いので遊泳にあたっては注意が必要。
西表島南端にある島随一のロングビーチ
南風見田の浜はトイレや更衣室もない、まさに秘境のビーチで、遠浅のためシュノーケルなどにも不向きです。
西表島随一のロングビーチながら、ファミリーの水遊び、自然観察の場所になっています。
海岸の奇岩は、八重山層群の露頭で、表面が磨かれたタマネギ状風化がユニークです。
よく観察すると、1771年4月24日(明和8年3月10日)の「明和の大津波」で打ち上げられたのだろうと推測される巨大な津波石もあります。
西表島は周囲130kmという大きな島(沖縄県内では沖縄本島に次いで面積第2位)。
そのうち沖縄県下で最長の県道である沖縄県道215号白浜南風見線は総延長が53km。
つまり、車で走れるのは島の外周の4分の1にすぎませんが、その南端部のさらに先にあるビーチということに。
日本最南端のバス停「豊原」での記念撮影もお忘れなく。
波照間島島民の強制疎開の悲しい歴史を伝える
南風見田の浜周辺にはワイルドな南風見田キャンプ場と農地があるだけですが、実は第2次世界大戦末期、日本最南端の島・波照間島(はてるまじま)の全島民が日本軍の命令で、強制的に疎開させられた地。
一帯は当時、伝染病マラリアの汚染地帯で、疎開島民のほぼ全員が罹患し、3分の1もの島民が命を落としたという悲しい歴史を秘めています。
波照間島へ代用教員として赴任し、4年生を担当した山下虎雄(本名は酒井喜代輔)は、実は陸軍中野学校・離島残置要員特務兵出身、日本軍秘密工作員で、昭和20年3月になると日本刀をふりかざして、島民に強制疎開を強要したのです。
食料も尽き、マラリアで多くの島民が死んだことから、照間国民学校校長・識名信升(しきなしんしょう)は、密かに石垣島に渡り八重山諸島守備隊・宮崎旅団長に惨状を直訴。
やとのことで帰島の許可を得ましたが、それでも山下軍曹は帰島に反対し、終戦を島民に知らせることもありませんでした。
南風見田の浜の東端の岩場、通称ヌギリヌパ(鋸の歯)の一角に「忘勿石」(わすれないし/忘勿石之碑)が立てられ、「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が刻まれています。
文字が刻まれた岩は、波照間国民学校の青空教室(入学式、授業)が行なわれた場所で、この惨事を忘れないようにとの意味を込めて、波照間国民学校の校長・識名信升が刻んだもの。
南風見田の浜 | |
名称 | 南風見田の浜/はいみだのはま |
所在地 | 沖縄県八重山郡竹富町南風見 |
関連HP | 竹富町観光協会公式ホームページ |
ドライブで | 大原港から |
問い合わせ | 竹富町観光協会 TEL:0980-82-5445 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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