玉造稲荷神社

玉造稲荷神社

大阪府大阪市中央区玉造にある古社が玉造稲荷神社。社伝によれば垂仁天皇が創建といい、蘇我氏と物部氏の戦いの際に、聖徳太子が観音堂を建立した地とも伝えられています。豊臣政権下では大坂城三の丸に位置し、一帯には前田利家など重臣の屋敷が並び、千利休の屋敷も南側に隣接していました。

大坂城三の丸に建ち、豊臣秀吉も尊崇

玉造稲荷神社

天正4年5月7日(1576年6月3日)、石山合戦(織田信長と石山本願寺・一向一揆勢との合戦)の戦火で焼失。
豊臣秀吉は、稲荷神を崇敬し、大坂城の鎮守社になり、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼が社殿や高殿(舞台)を再建。
五大老の前田利家、宇喜多秀家、茶人・千利休、島津家、鍋島家などが三の丸に屋敷を構え、前田利家は玉造の屋敷に豊臣秀吉を招き大宴会を催し、その生涯をこの地にあった前田利家邸で閉じています。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失。

豊臣秀頼奉納の鳥居が現存していますが、阪神淡路大震災で基礎部分が損傷し、脚部以上だけが保存されています。

徳川時代の大坂城となっても、大坂城の鎮守、大坂・稲荷社の本社として大坂城代・内藤信正が社殿を再建。
しかも伊勢参宮の出発点として、道中の安全を祈願する社にもなっていました(大坂〜伊勢は5日を要しました)。
伊勢参宮の「浪花組」(浪花講)も、文化元年(1804)、玉造稲荷神社社前の唐弓弦師・松屋甚四郎が行商の経験を活かして生み出した、旅行代理店のようなシステムです(旅のガイドブック『浪花講定宿帳』を出版、旅人は定宿帳に記載された街道を歩き、指定の宿に宿泊)。

また神仏習合時代には観音堂があり大坂三十三所観音の第十番札所として賑わいを見せ、近松門左衛門の『曾根崎心中』にも登場。
現在の社殿は大阪空襲で焼失した後、昭和29年の再建。

境内社の胞衣塚大明神は、大坂城三の丸時代に豊臣秀頼の胞衣を埋めたものがルーツ。

玉造稲荷神社の西側、越中公園の一帯の旧町名は越中町。
細川越中守忠興(細川忠興)の屋敷があった場所で、関ヶ原合戦の直前、人質にしようと石田三成の手勢が取り囲み、細川ガラシャ夫人が自刃した屋敷がここです。
越中井は細川忠興邸の台所にあった井戸と伝えられています(大正時代に埋められたものを昭和34年に復元)。

玉造稲荷神社
名称 玉造稲荷神社/たまつくりいなりじんじゃ
所在地 大阪府大阪市中央区玉造2-3-8
関連HP 玉造稲荷神社公式ホームページ
電車・バスで JR森之宮駅、玉造駅から徒歩10分
ドライブで 阪神高速道路森ノ宮ランプから約500m
問い合わせ 玉造稲荷神社 TEL:06-6941-3821
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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