大友宗麟墓地公園

大友宗麟墓地公園

大分県津久見市中田、戦国時代、豊後国(ぶんごのくに)を支配した大友宗麟(おおともそうりん)終焉の地、津久見にあるのが、大友宗麟墓地公園。昭和52年、キリシタンだった大友宗麟ということから新たにキリスト教式墓地を建設し、津久見市街を見下ろす高台に整備された墓地公園です。

キリシタン大名・大友宗麟終焉の地は、津久見

大友宗麟墓地公園
公園開設時、新たに築かれたキルスト教式の墓地

もともと相模国足柄上郡大友荘(現在の小田原市西大友・東大友)を根拠とした大友氏は、源頼朝に仕え、鎌倉時代に豊後国(現・大分県)に定着。
21代当主となった大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ)の時代には、一時大内氏の周防・長門まで勢力を拡大。
日明貿易やポルトガルを相手とした南蛮貿易で財を蓄え、九州の一大勢力へと発展します。
本拠地の府内(現在の大分市)にイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルを招き、城下には南蛮文化が花開き、自身も後にキリシタン大名となっています。

晩年は島津氏などの侵攻により勢力が衰微、豊臣秀吉に救援を求めますが、島津軍にに蹂躙されるなか、天正15年(1587年)、津久見で病死しています。
豊臣秀吉の九州平定により、大友氏領内の島津軍は撤退、大友氏はなんとか窮地を抜け出しています。

葬儀は神父たちの手によって盛大に行なわれ、墓もキリスト教式に建てられていますが、大友宗麟の死後僅か1ヶ月の後、豊臣秀吉が耶蘇教禁令を発布、その子・大友義統(おおともよしむね)は仏式の墓に取替えています。
といういきさつで、津久見と大友宗麟創建の禅刹・京都・瑞峯院にある墓は、仏式です。

敷地には、大分出身の世界的建築家・磯崎新氏設計によるキリスト教式墓地のほか、寛政年間に再建されたという仏式の墓もあり、桜と紅葉の名所としても知られています。

大友宗麟墓地公園
大友宗麟墓地公園
名称 大友宗麟墓地公園/おおともそうりんぼちこうえん
所在地 大分県津久見市津久見
関連HP 津久見市公式ホームページ
電車・バスで JR日豊本線津久見駅からタクシーで10分
駐車場 15台/無料
問い合わせ 津久見市観光協会 TEL:0972-82-9521
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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