釜屋間歩

釜屋間歩

石見銀山開発に尽力した奉行・大久保長安の配下、備中国早島(現・岡山県早島町)生まれの山師・安原伝兵衛が夢のお告げで発見したと伝えられる間歩(まぶ=坑道)が位置する釜屋間歩。観音菩薩に似た銀の塊を拾い、清水寺(せいすいじ)に奉納して祈願したところ、釜屋間歩を探す手がかりを授けられたと伝えられています。

「石見銀山ドリーム」を実現した安原伝兵衛

釜屋間歩

安原伝兵衛(本名:安原智種/やすはらともたね、資料によっては田兵衛と表記)は大久保長安の援助もあり、仙ノ山の本谷で釜屋間歩を開発(釜屋間歩は、本谷の大久保間歩の上部に位置しています)。
安原伝兵衛は山師とされていますが、実は鉱山の経営者、今でいう実業家で、鉱山職人集団を引き連れて石見にやってきたと推測できます。
それが証拠に、石見銀山資料解題『銀山旧記』にも1000人を使って鉱山開発をしていたこと、大坂の陣(豊臣勢との大坂城での決戦)の時、銀堀300人を連れて、松平正綱(まつだいらまさつな=家康の近習で勘定奉行)の陣に加わったことが記されています。

慶長8年(1603年)、安原伝兵衛は3600貫(約13.5t)という多額の運上銀(税金)を徳川家康に献上。
『東照宮御実紀』(江戸幕府の公式記録)には慶長8年(1603年)8月1日、伏見城で徳川家康に謁見していることが記されています。
この時、家康から「備中守」を許され、羽織と扇子を拝領し、「石見銀山ドリーム」ともいえる立身出世となったのです。

この時、伝兵衛は、州浜の上に蓬莱(東の海に仙人が住むという伝説の仙境)のかたちに銀を積み上げ、車で引いて献上し家康を驚かせています(巻六「傅兵衛は一間四面の洲濱に銀性の石を。蓬莱のかたちに積あげ車にて引てささぐ。ことに御感ありて参謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて称歎せざるものなし。」)。

安原伝兵衛の名は天正16年(1588年)、備中国(岡山県)の吉備津神社の回廊普請の寄進者にも名があります。
石見に移住した後も、築いた巨万の富を背景に、檀那となっていた故郷早島の御崎宮(現・鶴崎神社)の再建、吉備津神社御釜殿の再建などに尽力しています。

釜屋間歩に隣接した斜面からは、高さ18mの岩盤を三段のテラス状にくり抜いた巨大な遺構が発見され「謎の岩盤遺構」と呼ばれています。
釜屋間歩は大久保間歩、金生坑とともに本谷間歩群として世界文化遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産になっています。

安原伝兵衛が中興と伝える清水寺の境内には安原備中の墓が残され、子孫が墓参に来たことがあります(2023年は、安原備中没後400年)。

 

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