仙ノ山(露頭掘り跡)

仙ノ山(露頭掘り跡)

戦国時代に発見された石見銀山ですが、その最初に発見され、坑道を用いず地表に露出した銀鉱石を削る露頭掘りで採石されたのが仙ノ山。島根県大田市の石銀(いしがね)地区にある仙ノ山(537m)の山頂付近には広大な露頭掘り跡があり、世界文化遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産にもなっています。

石見銀山の繁栄は仙ノ山の露頭掘りに始まる

仙ノ山一帯には銀含有率の高い福石(ふくいし)鉱床があり、ここが世界的に有名な石見銀山のルーツ。
仙ノ山の東南斜面に当たる本谷(ほんだに)は、露出した銀鉱石を戦国時代に掘った露頭掘りの跡が最も多く残っています。
とくに福石鉱床は、銀の純度が非常に高く、しかも露頭だったことから、一攫千金が期待できたのです。
本谷には、銀山最大の規模を誇る大久保間歩など大規模な坑道も多く、巨万の富を生み出すきっかけになったエリアにもなっているのです。

博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)が日本海・韓島沖(からしまおき)から光る山を見つけたという『発見伝説』(『銀山旧記』)の舞台でもあり、約20haという広大な範囲に、露頭掘り跡、16世紀後半~17世紀の坑道、吹屋(製錬所)跡、住宅の跡などが残されています。

発掘調査の結果、江戸時代初期、石銀地区では木造の幅9m、奥行き7m以上の銀の精錬所が道路に沿って整然と建ち並んでいたことがわかっています。
唐津焼・伊万里焼・備前焼・中国製の陶磁器、土師器、金属製品、中国・日本銭などが出土し、中世の末から近世の初めに標高470mの山上に一大鉱山都市があったことがわかっているのです。

注目の発見としては、建物跡から、全国で初めて、灰吹法に使われた鉄鍋も見つかっています。
科学分析の結果、鍋に残された灰から鉛とともに動物の骨の成分が検出され、灰吹法の使用が証明されたのです。

仙ノ山(露頭掘り跡)へは、原田駐車場から本谷を登るのが一般的。
銀山随一の規模を誇る大久保間歩、安原伝兵衛が発見し徳川家康から褒美を授かったという釜屋間歩、釜屋間歩に近い岩盤遺構、仙ノ山の頂上付近の露頭掘り跡から石銀地区へと到達します。
所要は徒歩1時間20分ほど(プラス見学時間)。
往復で4時間ほどは必要です(石見銀山ガイドの会にガイドを依頼するのも手です/有料)。

神屋寿禎が発見した仙ノ山の銀鉱脈

石見銀山に残る『銀山旧記』によれば、戦国時代後期の大永6年(1526年)、博多の豪商・神屋寿禎が銅の買付のため日本海を出雲へ向け航海中、南の山の輝きを目にします。
船頭は神屋寿禎に、「銀峯山 (ぎんぶせん=仙ノ山)といって昔、銀を産出した山で、光は清水寺(せいすいじ)の観音様の霊光」と教えました。
神屋寿禎は、温泉津(ゆのつ)に船を着け、銀峯山に登って清水寺を参詣。下山の途中、白く光る石を拾います。
この石を室町時代に採掘が始まったという出雲国・鷺銅山の山師・三島清右衛門に見せると、銀鉱石であることが判明します。
こうして神屋寿禎は、仙ノ山で採掘を開始し、天文2年(1533年)、博多から宗丹(そうたん)と慶寿(けいじゅ)という2人の技術者を銀山に招き、灰吹法という新しい銀の精錬技術を導入するのです。

開発からわずか2年後には、石見銀山の名声は海外んいまで知れ渡り、『大内義隆記』にも「唐土(もろこし)、天竺(てんじく)、高麗(こうらい)の船が来航」と外国船の到来が記されています。

仙ノ山(露頭掘り跡)
名称 仙ノ山(露頭掘り跡)/せんのやま(ろとうぼりあと)
所在地 島根県大田市大森町
関連HP 石見銀山ガイドの会公式ホームページ
ドライブで 山陰自動車道(仁摩温泉津道路)仁摩・石見銀山ICから約9.6km
駐車場 原田駐車場(10台)、仙ノ山縦走コース入口
問い合わせ 石見銀山ガイドの会事務局 FAX:0854-89-0706
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
大久保間歩

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石見銀山の最盛期を支えた主要坑道の一つが本谷地区の標高310mに位置する大久保間歩(おおくぼまぶ)。関ヶ原合戦の直後、石見銀山の利権を手にした徳川家康から初代の銀山奉行に任命された大久保長安が、槍を手にして馬に乗ったまま入ったという伝承があ

釜屋間歩

釜屋間歩

石見銀山開発に尽力した奉行・大久保長安の配下、備中国早島(現・岡山県早島町)生まれの山師・安原伝兵衛が夢のお告げで発見したと伝えられる間歩(まぶ=坑道)が位置する釜屋間歩。観音菩薩に似た銀の塊を拾い、清水寺(せいすいじ)に奉納して祈願したと

 

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