確実に誤解を生む! まさかの天守閣(20)墨俣一夜城|岐阜県

墨俣一夜城

時代劇や歴史が好きな人なら、墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)と聞けば、少し心躍るものがあるのではないでしょうか。岐阜県大垣市墨俣町にあったという墨俣城は、織田信長の美濃攻めで、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、一夜にして築いたという伝説の城。現在は3重4階の模擬天守がそびえ立っています。

実は、『信長公記』にもほとんど記述がない!

墨俣一夜城
「ふるさと創世基金」をベースに大垣城天守を模して建設

重臣たちの反対を押し切り本拠を清州城から小牧山城に移し、美濃攻略を狙った織田信長は、永禄10年(1567年)、斎藤龍興(さいとうたつおき=斎藤道三の孫)の稲葉山城(後の岐阜城)を下し、美濃国、そして濃尾平野を集中に収めます。
その美濃攻略の一環で、長良川西岸、犀川との合流点である墨俣に砦を築いたというのが、この「墨俣一夜城」の伝説。

時代劇などでは、木下藤吉郎が長良川を使って木材を運び、一夜にして城を築き、この城を拠点にして美濃攻略を果たすというストーリーが展開されます。
そしてこの「墨俣一夜城」が、木下藤吉郎のサクセスストーリーには欠かせない話になっているのです。

ところが、信長旧臣の太田牛一が江戸時代初期に記した『信長公記』(しんちょうこうき)ほか、当時の史書にはほとんどその記載がないのです。
『信長公記』の記載では、永禄4年5月上旬(1561年6月中旬頃)に洲股要害の修築を命じ、美濃勢との合戦に勝利し、帰城の後これを引き払うとあります。

もともとあった要害城を修築、のちに引き払うとだけ記され、だれが修築しのかも記されていません。
その修築した武将が、仮に木下藤吉郎であったとしても、シンボルとなる建物は2層程度の望楼であったはずで、天守を構築する必要性はまるでありません。

歴史資料館として平成3年に天守を「創建」

墨俣一夜城
犀川に架かる橋も、太閤出世橋と、秀吉をアピール

現在、そびえ立っている3重4階、コンクリート造りの建物は、墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)。
大垣市も「城跡に、当時の砦のような城ではなく、城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が、平成3年4月に開館しました」と、暗にバージョンアップを認めています。

戦国時代の砦を忠実に再現するのではなく、あえて近世的天守風の建物を建てたのは、当時の墨俣町(平成18年3月27日、大垣市に編入)の観光的なシンボルにしたかったから。
墨俣町は面積も小さく、ほかに全国に誇れる観光的な要素もなかったので、「墨俣一夜城」をメインと考えたのです。

昭和34年、愛知県江南市の旧家・吉田家に伝わる『前野家古文書』の一部が、昭和62年に『武功夜話』(新人物往来社)として出版。
そのなかに木下藤吉郎の墨俣一夜城が詳細に記述されていることから、旧墨俣町は、その伝説を解説する資料館として、模擬天守を建てたのです。

ただし、この『前野家古文書』は、史書ではなく偽書と見る人が多く、仮に古書だとしても江戸時代後期の編纂だと推測でき、同時代的な史料としての価値はありません。
「木下藤吉郎の墨俣一夜城」は、あくまで伝承の域を出ない話なのです。

さらに、戦時下に砦的な建物を急ごしらえで改修したことを考えれば、天守があったはずもありません(そもそも天守を建てる意味もありません)。

当時の墨俣町は、戦国時代の物見櫓では、いかに立派なものでも観光客の集客には繋がらないと考えたのでしょう。
実は秀吉と墨俣を結びつける史書はありませんが、あくまでも時代劇同様に「秀吉の墨俣一夜城」という設定で、そのシンボルタワーということになるのです。

墨俣一夜城
雪をいだいた伊吹山を眺望
確実に誤解を生む! まさかの天守閣(20)墨俣一夜城|岐阜県
名称 墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)/すのまたいちやじょう(すのまたれきししりょうかん)
所在地 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
電車・バスで JR岐阜駅・名鉄新岐阜駅から岐阜バス大通方面行きで25分、墨俣下車、徒歩10分
ドライブで 名神高速道路岐阜羽島ICから約7.5km
駐車場 さくら公園駐車場(無料)を利用
問い合わせ 墨俣歴史資料館 TEL:0584-62-3322
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)

岐阜県大垣市墨俣町、長良川西岸に建つ墨俣城(すのまたじょう/戦国時代の地名は洲股)。1561(永禄4)年5月の織田信長による美濃侵攻の際に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が短期間で築城したため「墨俣一夜城」の名があります。この一夜城跡地に、大垣城の天

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