静岡市清水区の興津(おきつ)、清水港や三保松原を望む高台にあり、「興津(おきつ)の清見寺」として知られる臨済宗の名刹。その歴史は古く、創建は7世紀頃と伝えられています。天文8年(1539年)、今川義元の軍師・大原雪斉により、現在の臨済宗に転じています。島崎藤村の『桜の実の熟する時』に登場する五百羅漢も見事。
総門と山門の間を東海道本線が横切る
総門と山門の間を東海道本線が横切っていますが、画家・山下清は『清見寺スケッチの思い出』で境内を東海道線が横切る様を見て「お寺より汽車のほうが大事なのでお寺の人はそんしたな」と記しています。
現在では埋め立てでその雰囲気はほとんどありませんが、江戸時代には、寺の目の前に海(清見潟)が迫り、東海道が通り、三保の松原と並び駿河の名所だった地です。
清見潟には古くから関所が設けられ、その脇に関守として天台宗の仏堂が建てられたのが清見寺の由来。
足利尊氏(あしかがたかうじ)は、官寺として清見寺を保護し、今川義元(いまがわよしもと)も崇拝したのです。
足利義教(あしかがよしのり)は清見潟に船を浮かべて富士遊覧を楽しんでもいます。
幼少時代に今川氏の人質だった徳川家康は、人質だった幼少の折りに清見寺で学問を修め、さらに豊臣秀吉は小田原攻めにあたって清見寺に3泊して三保の松原の景、清見潟の月、富士の白雪を愛でたと伝えられています。
江戸時代には徳川幕府の庇護を受け、朝鮮通信使の接待所としても機能。
福禅寺(広島県福山市鞆町)、本蓮寺(岡山県瀬戸内市牛窓町)とともに、朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されています。
当時最高の知識人である朝鮮通信使による揮毫(きごう)は人気があり、総門に掲げられている「東海名區」の扁額は、玄徳潤(錦谷)の筆。
通信使や随員たちの書蹟や絵画など、歴史資料が多数保存され、「朝鮮通信使に関する記憶」が世界記憶遺産に登録されています。
境内には五百羅漢、家康手植えの梅も
境内には徳川家康手植えの「臥龍梅」があるほか、大方丈には「家康公手習の間」などの遺構が残されています。
家康が五木三石を配置したと伝えられる書院庭(国の名勝)は、見学可能(書院庭見学は有料)。
咸臨丸碑は、幕末の戊辰戦争の際の幕府軍の戦没者を祀るため清水の次郎長、榎本武揚が建立したもの。
山門は、慶安4年(1651年)築、大玄関は元和2年(1616年)、徳川家康の3女・正清院の寄進。
大方丈、仏殿、書院(玉座之間があります)も江戸時代後期の建物です。
文久3年(1863年)の改築の鐘楼には、正和3年(1314年)の鋳造の梵鐘がかかりますが、豊臣秀吉の小田原攻めの際の韮山城攻略で陣中の鐘として使われたと伝えられています。
仏殿脇の傾斜地に並ぶ五百羅漢は、天明3年(1783年)の浅間山の大爆発に起因する天明の飢饉で、人身の荒廃に心を痛めた清見寺の塔頭・臨海寺の志広和尚の発願で、寛政5年(1793年)に完成。
『桜の実の熟する時』にこの五百羅漢を記した島崎藤村が清見寺を訪れたのは明治26年。
「誰かしら知った人に逢えるという、その無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た」(『桜の実の熟する時』)。
島崎藤村のほか、夏目漱石、高山樗牛、北原白秋、与謝野晶子など多くの文人も足跡を残す名刹です。
山下清『清見寺スケッチの思い出』
清見寺という名だな
このお寺は
古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのは
どういうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたなお寺から見える海は
うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分の寺がきれいと思われるのがいいか
自分がお寺から見る景色がいい方がいいか
どっちだろうな
清見寺 | |
名称 | 清見寺/せいけんじ |
所在地 | 静岡県静岡市清水区興津清見寺町418-1 |
関連HP | 清見寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR興津駅から徒歩10分 |
ドライブで | 東名高速道路清水ICから約4km |
駐車場 | 15台/無料 |
問い合わせ | 清見寺 TEL:054-369-0028/FAX:0543-60-0033 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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