掛川城

東海道の要衝を守る名城、掛川城。現在の天守は、平成6年、日本で初めて木造で復元された復元天守ですが、往時の様子を忠実に再現しています。近世城郭を築いたのは、平成18年のNHK大河ドラマ『功名が辻』の主人公・山内一豊。天下分け目の関ヶ原合戦前には大きなドラマも生んでいます。

「掛川城戦国おもてなし隊」も結成

平成6年に昔ながらの木造で再建された天守
平成6年に昔ながらの木造で再建された天守
まだ木も新しく、築城当初の雰囲気が味わえます
まだ木も新しく、築城当初の雰囲気が味わえます

1854(安政元)年の安政東海大地震で建物の大半が損壊した掛川城。1596(慶長1)年に山内一豊が築いた天守を、江戸時代の絵図、掛川城を真似て築城された高知城などの資料をもとに、平成6年、日本で初めて木造で復元しています。
外部式望楼を備えた3層4階の天守で、1・2階に比べ、4階の望楼部分が極端に小さく感じます。これは、殿舎の上に物見のための望楼をのせた安土桃山様式の名残り(中世的な天守の名残)。

白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京・聚楽第(じゅらくてい=関白となった秀吉が政庁兼邸宅として建築)に、黒塗りの廻縁・高欄は大坂城天守に倣ったのだと推測されています。
天守最上層からは、掛川城下が一望のもと。晴れていればもちろん富士山を仰ぐことも。「掛川城戦国おもてなし隊」も結成され、土・日曜、祝日などには忍者や武将姿で登城、12月の日曜には「忍者の煤払い」(忍者姿での大掃除)も行なわれています。

「掛川城戦国おもてなし隊」も活躍中!
「掛川城戦国おもてなし隊」も活躍中!
山内一豊と千代の顔ハメ看板
山内一豊と千代の顔ハメ看板

敵の進軍を阻む実戦的な構造が随所に!

文明年間(1469年〜1487年)に守護大名・今川義忠(いまがわよしただ/今川義元の祖父)が築城したのが始まり。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦(おけはざまのたたかい)で今川義元が織田信長に討たれると、1568(永禄11)年、義元の子・今川氏真(いまがわうじざね)は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に籠城。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、和議により開城。今川氏真は小田原に退いています。

豊臣秀吉の天下統一が進んだ1590(天正18)年、家康が関東に移されると、秀吉の臣下・山内一豊が入城し、城を改築し、近世城郭としての体裁を整えています。これは、関東に移封した家康に睨みを利かせるため、戦乱で荒廃した掛川を軍事的、政治的に強固な拠点に立て直そうという秀吉の意向があったと推測できます。一豊は伏見城の普請にも参加しており、築城の経験もかわれました。城の脇を流れる逆川は、天然の濠としての機能だけでなく、河口近くの横須賀城と舟運で結ばれていました。物資の搬入などはこの逆川の舟運も利用されたと推測できます。

天守丸への登城路が屈曲している点にもご注目。敵の進軍を阻む、戦国の世の実戦的な設計思想がよくわかります。本丸下、腰曲輪のすぐ下の二の丸御殿との間にあった十露盤堀(そろばんぼり)は、南側の3分の1のみ復元。四つ足門脇の三日月堀も現存しています。

掛川城の内堀として機能した十露盤堀
掛川城の内堀として機能した十露盤堀
深さ8mの三日月堀
深さ8mの三日月堀

一豊、秀吉配下から家康の東軍で「天下分け目」の関ヶ原へ

家康を監視する立場にあった山内一豊ですが、伏見から東海道を東下して江戸城に向かう家康を、小夜の中山(さよのなかやま)にある久延寺に茶亭を建てて饗応しています。年老いて秀頼を溺愛する秀吉と、五大老筆頭格で秀吉亡き後を狙う家康、一豊と「内助の功」で知られる千代は、激動の歴史をしっかりと見据えていました。

秀吉の死後の1600(慶長5)年、山内一豊は、五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加。その時、石田三成が反旗を掲げて豊臣方の大名を集めますが、一豊は下野国小山(おやま=現・栃木県小山市)における軍議(有名な「小山評定」)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城・掛川城を家康に差し出すことを宣言。関ヶ原の合戦でも東軍に与して活躍しています。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、山内一豊は土佐一国を与えられて高知城(掛川城と似ています)を築城。掛川城下の職人や住民も一豊に従い、土佐に移り、高知城下に掛川町を形成しています。

徳川幕府設立後の藩政時代には、東海道の要衝ということもあり掛川城は譜代大名が城を守っています。
1861(文久元)年に再建された二の丸御殿は、現存。国の重要文化財になっているのであわせて見学を。

天守最上層から富士山方向の眺め
天守最上層から富士山方向の眺め
天守から眼下に見下ろす二の丸御殿
天守から眼下に見下ろす二の丸御殿

太鼓櫓も藩政時代のものを移築して現存

大手門は平成7年に復元(実際は現在地より50mほど南に位置していました)、城内に出入りする者はすべてここで調べられたという大手門番所は、1859(安政6)年再建のものが現存しています。

太鼓櫓(たいこやぐら)も幕末のものですが、昭和30年に三の丸から荒和布櫓(あらめやぐら)のあった本丸へと移築されています。時を告げた太鼓も、二の丸御殿のなかで保存されています。
掛川城大手二の門は、遠州三山の油山寺に移築し、山門としてこれも現存。1659(万冶2)年、井伊直好の再建した門で、明治維新後、最後の城主・太田資美が眼病全快のお礼として油山寺に寄進移築したもので、国の重要文化財。

三の丸から本丸へ移築された太鼓櫓
三の丸から本丸へ移築された太鼓櫓
遠州三山・油山寺の山門となった掛川城大手二の門
遠州三山・油山寺の山門となった掛川城大手二の門
掛川城
名称 掛川城/かけがわじょう
所在地 静岡県掛川市掛川1138-24
関連HP 掛川城公式ホームページ
電車・バスで JR掛川駅から徒歩10分
ドライブで 東名高速道路掛川ICから約2kmで掛川大手門駐車場
駐車場 掛川大手門駐車場(201台/有料)
問い合わせ 掛川城公園管理事務所 TEL:0537-22-1146
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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