日本武尊が東征のおり、三浦半島・観音崎あたりから房総半島に渡る時、海が大時化(しけ)となり、難儀した際に、妃(きさき)の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投じて海神を鎮(しず)めました。その帰路、日本武尊は湯島(現・東京都文京区湯島)に滞在し、住民が日本武尊と弟橘媛を祀ったのがこの神社の起こりとか。
江戸時代には王子稲荷神社と並ぶパワースポットだった!
後に稲荷明神(倉稲魂命)が合祀され、江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれていました。1657(明暦3)に起こった明暦の大火(振袖火事)までは、徳川家康に2町四方の社地を寄進された湯島天神(湯島天満宮)南東の台地上(旧湯島天神町1丁目)に鎮座していましたが、1660(万治3)年、神田明神(神田神社)に近い現社地に遷座しています。関東大震災、空襲で焼けたものの、坂下の同朋町有志などの熱意により見事に復活しています。
現在では訪れる人も少ない社ですが、江戸時代には「正一位妻恋稲荷大明神」と呼ばれて王子稲荷神社と並ぶ人気のパワースポットでした。
その人気ぶりから関東各地に稲荷社を分霊したり(妻恋稲荷が屋敷内に建てられたりしました)、野狐退散の出張祈祷が行なわれたりもしたのです。
正月2日の晩に枕の下に敷いて寝ると、よい夢を見るという由緒物の木版刷りの「夢枕」(「福寿鶴亀」、「七福神の乗合宝船」)が売り出されて人気を呼んだという話も残されています。その版木は、昭和52年12月摺師の家で発見されています。
それほどまでの人気ゆえに、関東総司と称していましたし、江戸時代後期の稲荷番付では行司の筆頭という高い社格を誇っていました。
社務所では縁起のいい宝船を描いた「吉夢(よいゆめ)絵馬」、縁結びのお守り、「吾妻はや絵馬」などを授与。
再び、パワースポットとして注目を集めつつあります。
祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
神社坂下の妻恋坂交差点から神社へと上る坂が、妻恋坂。坂の南側に霊山寺があったころには、開山の大超和尚の名をとって、大超坂と呼ばれていましたが、明暦の大火で霊山寺が浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が遷って、坂名も妻恋坂に変わったのだとか。
江戸時代の江戸の町では、大名屋敷内に各藩の地元にあった稲荷社が祀られたり、さらに町民が稲荷社を勧請したりして、日本一の稲荷密集地となっていました。幕末には60社、境内社を含めると190社近くの稲荷が江戸市中に鎮座していたのです。江戸時代の神社信仰のトップは神宮(伊勢神宮)へのお伊勢参りですが、2位は稲荷信仰、そして3位が富士山信仰(富士講)だといえるでしょう。以下、菅原道真信仰(天満宮)、神田明神、日枝神社、深川八幡宮、芝神明社、浅草三社権現(現・浅草神社)などがトップ10入りしています。
東京湾周辺に数多い日本武尊ゆかりの古社
『日本書紀』によれば、東国遠征の帰途、日本武尊は碓氷嶺(長野県・群馬県県境の碓氷峠)の頂に立った際、弟橘媛を偲んで、「吾嬬者耶」(あづまはや)と嘆いたとされています。現代語に訳せば「ああ、わが妻よ!」となります。
群馬県には吾妻郡、嬬恋村などそれを裏付ける地名も残されていますが、『古事記』には「吾妻はや」と嘆いたのは碓氷嶺ではなく、足柄峠下の坂本とされています。
さすがに妻恋神社、この「吾嬬者耶」をモチーフにした「吾妻はや絵馬」がちゃんと用意されているのです。
神奈川県横須賀市走水にある走水神社(祭神は弟橘媛)が、浦賀水道(当時の東海道)を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め社を創建したと伝えられています。
また、浦賀水道に身を投げた妃の袖が海岸一帯に流れついたのが袖ヶ浦(千葉県袖ケ浦市)。木更津(千葉県木更津市)という地名も日本武尊が弟橘媛の運命を悲しみ、しばらくこの地を去らなかったことから君不去(きみさらず)と呼ばれるようになったという説があります。
木更津市吾妻にはちゃんと、我が妻よで、吾妻神社(あづまじんじゃ)が鎮座しています。木更津市吾妻にも袖が流れ着いたという伝承があるのです。
東京都墨田区立花の立花(たちばな)も弟橘媛の橘(たちばな)に由来するといわれ、江戸浦だった古代に、弟橘媛の遺品が流れ着いたとされます。
遺品が流れ着き葬って塚としたものが吾嬬神社(墨田区立花1-1-15)の始まりとか。
東京では、台東区千束3丁目の鷲神社(おおとりじんじゃ)にも日本武尊伝承が残されています。
妻恋神社のおもな年中行事
1月1日/元旦祭=11:00〜
3月上旬の日曜/例大祭=12:00〜
6月30日/夏越の祓=17:00〜半年間、知らず知らずのうちに積もった罪と穢(けがれ)を祓います
12月31日/年越しの大祓=17:00〜半年間、知らず知らずのうちに積もった罪と穢(けがれ)を祓います
江戸切絵図に見る妻恋神社(妻戀稲荷)
妻恋坂にある内藤豊後守(ないとうぶんごのかみ)とは、信濃岩村田藩6代藩主・内藤正縄のこと。つまりは岩村田藩江戸上屋敷です。内藤正縄は、天保の改革を行なった老中・水野忠邦の実弟。幕末には伏見奉行に就任し、井伊直弼による安政の大獄を支えています。
妻恋神社 | |
名称 | 妻恋神社/つまこいじんじゃ |
所在地 | 東京都文京区湯島3-2-6 |
関連HP | 妻恋神社ホームページ |
電車・バスで | JR御茶ノ水駅聖橋口から徒歩10分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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