弁天橋

洲崎神社の横(東側)を流れる大横川南支川に架かる橋。橋長23.2m、幅員10.1mで、昭和6年に関東大震災の復興計画で架橋された鋼製ガーター橋です(昭和7年開通)。昭和6年といえば羽田飛行場(後の東京国際空港)開港、松屋浅草店開業、東京科学博物館開館の年で、柳条湖事件(満州事変)も勃発しています。

江戸時代には江戸屈指の景勝地だった洲崎に架かる橋

弁天橋の上流で、大横川から分流して南に下る、南支川に架かっています。
ガーター橋なので、鉄道のガードの道路版といった感じで、周辺の橋に比べて地味な感じが否めません。車で走り抜けたら橋と感じないくらいでしょう。

タモリ倶楽部「満潮になったら通れない!!最低橋リンボー・クルージング」(江東区運河銀座に多く存在する桁下高が極めて低い橋・最低橋を小型船でくぐるリンボークルージングに挑戦/平成23年7月8日放送)でも、沢海橋、大横橋、茂森橋などとともに弁天橋をくぐっています。

洲崎神社(江戸時代は洲崎弁天)一帯は、元禄年間(1688年~1704年)に埋め立てられた土地。
寛政3年9月4日(1791年10月1日)、洲崎一帯を台風による高潮が襲い、多くの家屋が流出するという大惨事が発生。
これを機に、江戸幕府は洲崎一帯に家屋の建築を禁じています。

それによって開発、埋め立てが進む江戸にあって、風光明媚な海岸風景が残され、潮干狩り、そして初日の出の名所として知られるようになったのです。

渡った先の東陽1丁目界隈には、明治21年に根津から遊郭が移転(東京帝国大学の新設で、根津から退去)。
東側の広大な湿地を干拓して遊郭街が誕生し、洲崎弁天町となったのです。
戦後、昭和33年の売春防止法成立まで「洲崎パラダイス」の名で知られる歓楽街でした。

江戸切絵図に見る弁天橋・洲崎神社(洲崎弁天)周辺


江戸時代にはまだ埋め立てがなく(埋め立ては明治20年以降)、弁天橋の架かる大横川の南支川(運河)もまだありません。

弁天橋
名称 弁天橋/べんてんばし
所在地 東京都江東区木場6丁目・東陽3丁目
電車・バスで 東京メトロ東西線木場駅から徒歩2分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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