太田道灌が江戸城を築いた15世紀には、江戸湾に面した現在の平川門周辺には、上平川村、下平川村という村があったのが平川門の名の由来です。太田道灌の時代から門が築かれていたと推測され、3代将軍・徳川家光の治世である1635年(寛永12)年、高麗門(第一門)、渡櫓門(第二門)という強固な枡形門のスタイルとなりました。
江戸城三の丸の正門で今も濠には木橋が架かる!
門の前、平川濠には今も木橋が架かっていますが、高麗門(こうらいもん)、渡櫓門(わたりやぐらもん)で構成される枡形門(ますがたもん)、木橋が往時のように残されるのは江戸城でもここだけです。
現在の木橋(全長29.7m、幅7.82m)は台湾産のヒノキ材を使って昭和63年に再建されたもの。橋台は石造り、脚桁には鉄骨が使われていますが、親柱の擬宝珠(ぎぼし)には、寛永や慶長などの銘が彫られており、往時のものが使われていることがわかります。
江戸時代には江戸城三の丸の正門。
現在では大手門、北桔橋門(きたはねばしもん)と並んで、皇居東御苑(本丸・二の丸・三の丸)の入苑口のひとつになっています。
江戸時代には、本丸から最も近い通用門という位置から、大奥女中達の出入りする通用門「お局御門」としても機能し、北の丸に暮らす御三卿(清水家・一橋家・田安家)の登城口にもなっていました。
平川門の右手の石垣の最上段に石狭間(石に穴を空けて銃眼としたもの)がありますが、1613(慶長18)年、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)が石垣普請(いしがきふしん)を命じられたとき、高虎が考案したと伝えられる江戸城の貴重な遺構です。
平川門は江戸城本丸の事件を眺め続けた不浄門
また、罪人や遺体はここから出すという「不浄門」にもなっていました。
たとえば、1701(元禄14)年、殿中(でんちゅう=将軍の居る所)で刃傷沙汰「赤穂事件」を起こした浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は重罪人ですから、城内の座敷牢に留め置かれた後、この平川門から一関藩主・田村邸(現・東京都港区新橋4丁目=新橋4丁目交差点脇に「浅野内匠頭終焉之地」碑)へと移されたのです(内匠頭は即日切腹)。
さらに、1714(正徳4)年、「絵島生島事件」(えじまいくしまじけん)の奥女中・絵島もこの門から、さらに天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)を幼児から育てた老女・菊本も大奥で自害したため、この門から出されています。
1784(天明4)年、本丸御殿中ノ間から桔梗ノ間に移る途中、新番組の旗本・佐野善左衛門(佐野政言)から切りつけられ2日後に死亡した若年寄・田沼意知もこの門から出されて小伝馬町の牢屋敷に移されています。
ユニークな事件では、3代将軍家光の乳母で権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)は、門限に遅れ門衛(旗本・小栗又一郎=小栗上野介はその末裔)が掟の例外を認めず寒い一夜を門前で過ごしました。
幕府は門衛の小栗又一郎をお咎(とが)めなし。逆にお褒めと500石の加増となっています。
江戸城内図に見る 平川門
平川門 | |
名称 | 平川門/ひらかわもん |
所在地 | 東京都千代田区千代田1-1 |
関連HP | 宮内庁公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ東西線竹橋駅から徒歩6分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 宮内庁 TEL:03-3213-1111 |
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