東京都台東区の上野恩賜公園にある不忍池(しのばずのいけ)の中島にあるのが寛永寺・不忍池辯天堂。寛永寺開山の天海僧正が、江戸時代初期の寛永年間(1624年〜1645年)に創建したもので、祀られる本尊は、八本の腕があり、煩悩を打ち壊す武器を手に持つ八臂辯才天(はっぴべんざいてん)。谷中七福神の弁財天になっています。
天海が琵琶湖・竹生島を模して辯天堂を創建
天海僧正は、2代将軍・徳川秀忠と相談し(天海僧正は顧問役)、浅草寺に代わる徳川将軍家祈願所を上野の山にという一大プロジェクトを展開します。
中世末(戦国時代)から流行していた「見立て」(「うつし」)という手法を用い、西の天台宗の拠点・比叡山に対して東叡山という山号を決め、延暦年間に創建された延暦寺に対し、寛永年間に創建ということで寺号を寛永寺に定めます。
江戸城から見て鬼門の丑寅、北東の方角にあたる上野山に、方位学的な吉相を高めるために東叡山寛永寺を配置したのです(比叡山が京の鬼門=北東の位置に置かれているのと同じ)。
天海僧正が神田神社(神田明神)を、現在の湯島の地に移したのも、江戸城〜神田神社〜寛永寺が北東のラインの線上に並ぶからです(逆の南西の延長上=裏鬼門には芝・増上寺があります)。
寛永寺の境内に清水寺風の造りの清水観音堂を建立したのも、京に模したから。
そして、天海僧正には江戸庶民の行楽の地にしようという深謀遠慮な計画があったのかもしれません。
さらに、池(現・不忍池)を琵琶湖に見立て、元々あった聖天(しょうてん=歓喜天)が祀られた小さな島を竹生島(ちくぶしま)に見立てます。
常陸下館藩主・水谷勝隆(みずのやかつたか)は中之島(弁天島)を拡張し、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺(弁才天信仰の聖地)から弁才天を勧請、辯天堂を創建します。
不忍池になぜ弁才天が祀られたのかといえば琵琶湖、そして竹生島に見立てたから。
竹生島に見立てたため、当初は橋がなく、船で渡っていましたが、江戸庶民の参詣が増えたため、寛文年間(1661年~1672年)には石橋を架橋しています。
本尊・八臂辯才天は慈覚大師の作と伝えられ、弁財天信仰の高まりとともに、江戸で最初の七福神めぐりである『谷中七福神』へと発展します。
現存する不忍池辯天堂は、空襲による焼失後、昭和33年の再建。
本堂前、手水鉢の天井には、天保3年(1832年)という銘のある谷文晃(たにぶんちょう)の『水墨の竜』が描かれているのでお見逃しなく。
本尊・八臂辯才天は秘仏ですが、9月に行なわれる『巳成金大祭』(みなるかねたいさい)の日のみ御開帳されています。
広重の浮世絵、長谷川雪旦『江戸名所図会』に見る辯天堂
初代の歌川広重が3枚続きで鳥瞰図風に江戸の名所を描いた『東都名所』シリーズのうち、「上野山王山・清水観音堂花見・不忍之池全図 中島弁財天社」。
南伝馬町一丁目の蔦屋吉蔵の開板。
『江戸名所図会』における長谷川雪旦の挿絵(写真下)に酷似しているので、雪旦の絵を下敷きに制作していることは疑いありません。
芸術的な評価があまり高くないのは、需要があるため描いたという「応需かき」であるため。
寛永寺・不忍池辯天堂 | |
名称 | 寛永寺・不忍池辯天堂/かんえいじ・しのばすのいけべんてんどう |
所在地 | 東京都台東区上野公園2-1 |
関連HP | 不忍池辯天堂公式ホームページ |
電車・バスで | JR・京成・東京メトロ上野駅から徒歩3〜10分 |
問い合わせ | 寛永寺・不忍池辯天堂 TEL:03-3821-4638 |
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