『湖底の故郷』歌碑

『湖底の故郷』歌碑

東京都西多摩郡奥多摩町、小河内ダム(ダム湖が奥多摩湖)のダムサイト、奥多摩湖のビジターセンター的な役割を担う「奥多摩水と緑のふれあい館」横に配されているのが『湖底の故郷』歌碑(こていのふるさとかひ)。『湖底の故郷』は、昭和12年、東海林太郎(しょうじ たろう)が歌って大ヒットした曲です。

湖底に沈んだ小河内村を歌った名曲

昭和32年竣工の小河内ダムですが、実は昭和7年に当時の東京市、東京府に認可申請され、着工したのは昭和13年11月12日。
「帝都の御用水のための光栄ある犠牲である」という説得で、昭和7年、小河内村はダム工事での水没を了承、建設用地の買収が始まったのです。

日本の近代水道布設の目的のひとつに、コレラ菌など伝染病の感染を防ぐことにあり(明治時代にコレラ菌などの水系伝染病で、日本国内で何十万人という命が失われています)、東京市水道局の第一次水道拡張事業で、大正3年に村山貯水池(多摩湖)が完成、大正15年に金町浄水場、昭和9年山口貯水池が完成、第二次水道拡張事業として昭和6年に発表されたのが小河内ダム建設でした。

「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」(昭和13年、小河内村役場編・発行『湖底のふるさと小河内村報告書』)。

ダム建設により、小河内村は村の集落の大部分が水没、さらに山梨県丹波山村・小菅村を合わせ、945世帯6000人(小河内村は600世帯、3000人)ほどが移転を余儀なくされたのです(一部は現在湖畔を走る国道411号沿いに移転、多くは近隣の市や山梨県・清里高原に移転)。

水利権を巡る交渉で着工が遅れ、さらに戦時下で工事が中止されるなど、完成までには長い年月を費やし、湖底に沈む予定の住民たちは翻弄(ほんろう)されたのです。
昭和12年、作家・石川達三が小説『日蔭の村』を出版すると(発破の音を「都会文明の勝利の歌、機械文明のかちどきの合唱」と記しています)、ダム建設は社会問題となり、多くの文化人が視察のために奥多摩に足を運んでいます。

そんな世情を背景に発売された、小河内村の消滅をテーマにした歌が『湖底の故郷』(作詞・島田磬也、作曲・鈴木武雄)。
作詞家の島田磬也(しまだきんや)は、昭和10年、古賀政男作曲で、ディック・ミネが歌う『望郷の唄』がヒットし、東海林太郎も『旅笠道中』(昭和10年)、『野崎小唄』(昭和10年)、「椰子の実」(作詞・島崎藤村/昭和11年)など、ヒット曲が続いた中での発売でした。

『湖底の故郷』歌碑が建立されたのは、昭和41年のことで、碑の除幕式には村人たちが招待されたなかで、東海林太郎が歌い、涙を誘いました。
「お国のためと言われれば文句も言えない時代でした」(旧小河内村出身者の話)。

湖畔の小河内神社は、湖底に沈む9社11祭神を合祀した社です。

『湖底の故郷』歌碑
名称 『湖底の故郷』歌碑/『こていのふるさと』かひ
所在地 東京都西多摩郡奥多摩町原
電車・バスで JR奥多摩駅から西東京バス奥多摩湖方面行きで18分、奥多摩湖下車、すぐ
ドライブで 圏央道青梅ICから約33km
駐車場 奥多摩水と緑のふれあい館駐車場(65台/無料)
問い合わせ 奥多摩町観光案内所 TEL:0428-83-2152/FAX:0428-83-2789
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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