東京都中央区、平安時代の承和8年(841年)創建と伝わる古社、鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)の境内にあるのが鉄砲洲富士。江戸時代中期に富士講は隆盛し、江戸八百八町それぞれに講中が組織され、50ヶ所ほどの富士塚が築かれましたが、中央区内に現存する唯一の富士塚が鉄砲洲富士です。
江戸で3番目に築かれた富士塚
寛政2年(1790年)に、丸藤講が築いた富士塚で、明治元年、鐵砲洲稲荷神社の境内地が収用され、120mほど南の現社地に遷座したため、明治7年に塚も再築造されています。
丸藤講は、富士講を中興した食行身禄(じきぎょうみろく)直系の弟子で、最初の富士塚である高田富士を築いた植木屋・高田藤四郎(日行青山)を祖とする講中。
江戸の富士塚は、富士講信徒の協力を得て、溶岩(黒ボク)を富士の山麓から採集、相模川を船で下り、三浦半島を回って江戸湾に入り、神田川を遡って揚場河岸(あげばがし=飯田濠の河岸、現・新宿区神楽河岸)に着き、大八車で戸塚村まで運んでいます。
丸藤講はまさに江戸における富士塚の正統派で、歴史的にも、安永8年(1779年)の高田富士(甘泉園公園横に移設され現存)、寛政元年(1789年)の千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)に次ぐ歴史を誇っています。
丸藤講が鉄砲洲に築いたのも、物資を荷揚げする河岸(かし)が発達していた鉄砲洲という地の利があったのかもしれません。
鉄砲洲富士の高さは5.4m、明治7年に新社地に移築後も、境内のなかで明治18年、関東大震災後の区画整理の昭和3年、社殿造営時の昭和11年と3回移築されており、移築の際に創建時代の規模より小さくなった可能性があります(江戸時代の浮世絵などには社殿から図抜けた高さで描かれています)。
現在の鉄砲洲富士は、富士山の五合目以上の姿を模したもので、正面に池、山裾に開祖・長谷川角行が修行した人穴を再現した洞窟、中腹に末廣稲荷と稲荷大神の石祠、山頂付近に烏帽子型の白い巨石(中興の祖・食行身禄の入定した烏帽子岩を象徴)、山頂に奥宮(富士浅間神社の石祠)が祀られていますが、池は富士塚を築くときに土を採取した穴で、富士塚の定型です。
鉄砲洲富士の山腹には富士講に関する32基の石碑があり、講印(講紋)の陰刻から塚を築いた丸藤講(○のなかに藤)が多いことがわかります。
碑銘には、丸藤講の先達(せんだつ=ガイド役)、講元(運営面での責任者)が刻まれています。
富士塚の麓にある楕円形の力石2個には、富士講のひとつ丸瀧講の講印が陰刻され、中央部分に「霊岸島」「小田原屋久助持石」とあるので、小田原屋久助が持ち上げた力石が奉納されたものだとわかります。
かつては1月3日早朝に行う初富士の礼拝、6月1日の山開き(家々の軒下で線香を焚いて富士を遙拝)や浅間神社の祭礼などの年中行事もありました。
現在、鉄砲洲富士は危険のため、登拝することはできません。
浮世絵にも描かれた鉄砲洲富士
歌川豊国3代と歌川広重2代が幕末に描き、元治元年(1864年)に刊行された『江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣』にも、鉄砲洲富士への参詣風景が描かれています。
少女が手にする麦わら細工の蛇は、宝永(1704年~1711年)頃に厄病除けとして駒込富士(駒込富士神社)で発売され、その後、各地の「お富士さん」の祭礼で売られるようになったもの。
『絵本江戸土産』は、歌川広重(初代)が描き、嘉永3年(1850年)から刊行された江戸名所のガイドブックで、江戸各地の名所を細かく記載しています。
そのうちの「鉄砲洲湊稲荷境内の不二」では、「その境内に富士をつくり浅間宮を安置せり」との解説文で、社殿より大きく聳える鉄砲洲富士が描かれています。
天保年間(1831年〜1845年)に、斎藤月岑(さいとうげっしん)が7巻20冊で刊行した江戸の地誌『江戸名所図会』には「湊稲荷社」として境内の社殿裏、海に臨んで「冨士」という注釈付きで富士塚が描かれています。
鉄砲洲富士(鐵砲洲稲荷神社) | |
名称 | 鉄砲洲富士(鐵砲洲稲荷神社)/てっぽうずふじ(てっぽうずいなりじんじゃ) |
所在地 | 東京都中央区湊1-6-7 |
関連HP | 鐵砲洲稲荷神社公式ホームページ |
電車・バスで | JR・東京メトロ八丁堀駅から徒歩5分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 鐵砲洲稲荷神社 TEL:03-3551-2647/FAX:03-3551-2645 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag