【地図を旅する】vol.10 新潟・山形県境にそびえる標高555.2mの日本国

日本国

新潟県村上市と、山形県鶴岡市の境、朝日連峰から続く長大な羽越国境(新潟・山形県境)の海岸(鼠ヶ関)近くのピークが、日本国。日本広しといえども、日本国という地名は、ここだけ。なぜ日本国という名が生まれたのかといえば、古代、ヤマト王権の「国境」だったという説も。

日本国という名が付いたのは、古代、日本国の最前線だったから!?

日本国
日本国の登山口

どうして日本国という大胆な山名が付いたのが諸説あり定かでありません。

有力な説のひとつは、古代にヤマト王権の北限が羽越国境(新潟・山形県境)で、これより北は蝦夷(えみし)の支配下にあったというもの。
念珠関(鼠ヶ関・ねずがせき)も蝦夷に対して置かれた城柵だと推測され、日本海側の念珠関、内陸部の白河関(福島県白河市)、太平洋側の勿来関(なこそのせき)が「奥羽三関」(江戸時代の呼称)で、鈴鹿峠から東が「関東」だった当時の「国境」だったのです。

かつて新潟県最北端にあり、町内にある日本国をひとつの売りにしていた山北町(さんぽくまち=平成20年に村上市に吸収合併)には、山北科布(さんぼくしなぬの)という伝統工芸品がありますが、科の木の樹皮繊維で織った布。
北海道を中心とするアイヌ文化圏(鎌倉時代以降の文化圏)にも見られる織物で、牧野富太郎の『日本植物圖鑑』によれば、科(シナ)は、アイヌ語の「結ぶ」「縛る」「括る」という意味の言葉に由来すると記されています(ただしアイヌ語でシナノキはnipes・ニペシです)。
アイヌ文化は鎌倉時代以降の文化なので、蝦夷(えみし)とは直接的な関係はありません。
蝦夷(えみし)は、東北に住んで、近畿にある王権と異なる文化を有する人々の総称で、「東北アイヌ」と称される人々のルーツとなる民族が一帯に暮らしていた可能性はあります。

いずれにせよ、ヤマト王権やその後身となる古代日本の律令国家(朝廷)の最前線がこの山北町で、そのために、日本国北限が日本国となったというのが旧山北町観光関係者の考えでした。
その裏付けとして、斉明天皇元年7月11日(655年8月18日)、難波宮で北(越国)の蝦夷99人、東(陸奥国)の蝦夷95人を饗応しており、越国(こしのくに=現在の福井県〜新潟県、越前、越中、越後)にも蝦夷(えみし)が暮らしていたこと、なんとか朝廷が勢力下に置こうと努力していたことがわかります。
もうひとつ、日本国の登山口となる村上市小俣地区は、出羽街道沿い。
かつて羽越国境を超える街道は、海沿いを避け、日本国の東肩にあたる堀切峠を越えていたのです。
まさに、一帯は、日本海沿いの東北への入口(越国の北辺)ということに。

日本国は、村上市小俣地区に登山口があり(近くには日本国麓郵便局も!)、徒歩1時間30分ほどで山頂に到達できます。
現在、小俣地区で日本国の登山道整備などをされている「日本国を愛する会」が、「日本国登頂証明書」を発行(山頂で記念スタンプを押すなどの条件があり、申し込み用紙を田宮彦作商店で購入、後日郵送される仕組み)。

日本国
登山口のある小俣地区に出羽街道が通っています
【地図を旅する】vol.10 新潟・山形県境にそびえる標高555.2mの日本国
関連HP 村上市公式ホームページ
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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