徳島城(徳島中央公園)

国の史跡である徳島城の城跡。その城跡に日露戦争戦勝記念で明治39年に開園したのが徳島中央公園です。自然を生かした城山ゾーンを中心に、旧徳島公園ゾーン、スポーツゾーン、休養ゾーン、河岸ゾーンの5つのゾーンがあります。徳島城の本丸跡は、城山原生林に覆われた城山の山頂部に。「日本100名城」にも選定。

蜂須賀家政が築城した平山城は、阿波25万7000石の藩庁

伊予国地頭・河野氏が支配する地に、1385(至徳2)年、室町幕府管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)が砦(城)を築いたのが徳島城の始まり。
戦国時代の1585(天正13)年、豊臣秀吉の四国征伐に功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が連郭式の平山城を築城。
以降、明治維新まで徳島藩・蜂須賀氏25万石の居城となりました。

標高61mの城山を中心に、山上に本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸、南麓に寺島川(現在はJR阿波室戸シーサイドラインの線路に)と堀川に囲まれた御殿(藩主の治世・生活の場=現在の徳島城博物館建つ場所)、西麓に隠居した藩主の生活の場でもあった西の丸、さらに西側に庭園を有した御花畠屋敷が配されていました。

徳島城の天守は、元和年間(1615年〜1624年)に取り壊され、東二の丸に天守代用の御三階櫓がありましたが、明治6年の廃城令で破却されています。

徳島城は、「日本100名城」にも選定されていますが、現存する往時の遺構は石垣と、表御殿庭園。
徳島大空襲で焼失した鷲の門(わしのもん)は、平成元年に復元されています。

国の名勝でもある旧徳島城表御殿庭園は、関ヶ原の戦いの後に茶人・上田宗箇(うえだそうこ=上田重安)によって造られた徳島城の表書院の庭。
「阿波の青石」といわれる緑色片岩を多用した大名庭園で、数寄屋橋下から地下水路を通して内堀の海水を導入した潮入り庭園になっています。

徳島中央公園内には、徳島藩と蜂須賀家の歴史資料を常設展示する「徳島城博物館」、徳島城の巽(南東)の方向に位置する鷲の門(復元)、旗櫓の下にあった数寄屋橋門(復元)、400株のバラが咲くバラ園など見どころも多く、市民の憩いの場所になっています。

また、本丸、二の丸、月見櫓などの石垣、堀川(内堀)が現存しています。

『正保城絵図』に見る 徳島城

正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図が『正保城絵図』。
城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています。
国立公文書館内閣文庫に伝存する正保城絵図は徳島城を含め63点で、国の重要文化財になっています。

蜂須賀家政

初代の徳島藩主となった蜂須賀家政は、軍師としても有名な蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の子。
1558(永禄元)年、蜂須賀屋敷と呼ばれる尾張国丹羽郡宮後村(現・愛知県江南市)の宮後城(みやうしろじょう)に生誕。
織田信長、さらに豊臣秀吉に仕え、秀吉の四国攻めの功績で阿波を領地にして、徳島城を築城します。
有名な阿波踊りは、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥とも。

秀吉没後は、石田三成を襲撃に参加。
さらに関ヶ原の戦いでは病気を理由に参陣せず、領地の阿波を豊臣家に返上。派遣した2000ほどの兵も結果として東軍に与したため、家康から所領を安堵されています。

さらに大坂の陣では、家康方となり、戦後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、25万7000石に加増されています。
徳島藩の史書『渭水聞見録』によれば、伊達政宗は、蜂須賀家政を「阿波の古狸(ふるだぬき)」と称したとも伝えられています。

徳島城(徳島中央公園)
名称徳島城(徳島中央公園)/とくしまじょう(とくしまちゅうおうこうえん)
所在地徳島県徳島市徳島町城内1
関連HP徳島市公式ホームページ
電車・バスでJR徳島駅から徒歩5分
ドライブで徳島自動車道徳島ICから約3km。または、神戸淡路鳴門自動車道鳴門ICから約11km
駐車場徳島中央公園東側駐車場(89台/有料)、西駐車場(116台/有料)
問い合わせ徳島市公園緑地課 TEL:088-621-5295/FAX:088-655-4999
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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徳島城・本丸跡

標高61mの城山に築かれたのが本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸の山城部分。徳川幕府の安定とともに、徳島藩の藩政は山麓の御殿へと移り、山上の施設はいざという時の備えとなりました。山城部分で最大の面積を誇ったのが本丸で、御座敷と御城山定番の詰

徳島城・東二の丸 天守跡

城山の頂に位置するのが徳島城の本丸ですが、東側に一段下がった場所にあるのが東二の丸。徳島城ではここに天守が建てられていました。1階は7間四方(一辺が14mの正方形)という大きさでしたが、天守台(天守を支える石垣など)は築かれていませんでした

徳島城・鷲の門

徳島城の築城時には城外だった地に、新しい曲輪である三木郭(みきくるわ)が築かれた際に設けられた門が鷲の門。徳島大空襲で焼失したため、現在の門は徳島市市制100年を記念し、平成元年に復元されたもの。この門をくぐるのが正規の登城道鷲の門をくぐっ

徳島城・下乗橋

徳島藩主・蜂須賀氏の生活空間であり、治世の場でもあった御殿への玄関口にあたるのが下乗橋(小見付橋)。内堀に架かる橋で、往時には太鼓橋でした。下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来。明治2年に花崗岩製の太鼓

徳島城・数寄屋橋

徳島城の御殿の鬼門(北東)にあたる門が城の東を流れる堀川に面した数寄屋門(すきやもん)。旗櫓(はたやぐら)の下に位置するもんは、別名「不明門」(ふみょうもん)と呼ばれ、死者を搬出するなど城内の凶事の際以外には開かれることはありませんでした。

 

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