和歌山県田辺市中辺路町、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産でもある熊野古道(国の史跡「熊野参詣道」)・中辺路(なかへち)にあるのが継桜王子(つぎざくらおうじ)。熊野九十九王子社(くまのくじゅうくおうじ)のひとつで、社(江戸時代までは若一王子権現)の神社の鎮守の森が野中の一方杉と呼ばれる杉の巨木群です。
一方杉の枝の指す方向が那智山
継桜王子は、比曽原王子(ひそはらおうじ)と中ノ河王子(なかのかわおうじ)の間にある王子で、野中集落にあります。
天仁2年(1109年)の『中右記』(ちゅうゆうき=中御門・右大臣藤原宗忠の日記)に根元がヒノキで上部が桜という希有な木が記されていますが、これが「継桜」の由来。
若一王子権現(にゃくいちおうじごんげん=本地仏は十一面観音である神仏習合の神で、五所王子の第一位)が祀られていましたが、神仏分離後の明治42年に近野神社に合祀されて廃絶。
昭和25年になってようやく復興されています。
往時の桜は途絶え、江戸時代には徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖である徳川頼宣(とくがわよりのぶ=徳川吉宗の祖父)が山桜を植えていますが、それも明治22年の水害で流出。
源義経を匿ったことで知られる奥州・平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の熊野詣での伝承から「秀衡桜」とも呼ばれましたが、藤原秀衡が熊野参詣をしたという史実はありません。
「野中の一方杉」は、明治の博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)もこの鎮守の森に注目し、植物採取を行なったほか、神社合祀に反対して存続運動を展開しました。
明治41年には野中集落の「松屋」に宿泊し、一方杉とその上部の雑木林を失えば、杉も枯れると警告。
神社合祀問題では、合祀に反対し、鎮守の森の保存に尽力しますが、明治政府と地元村会の強引な神社合祀行動で、ついに9本以外の杉は切られて南方熊楠は大いに落胆しているのです。
南方熊楠のこうした自然保護活動の地13ヶ所(中辺路では他に高原熊野神社)は、「南方曼陀羅の風景地」として名勝に指定されています。
残された杉を見ると、那智山の方向に枝を伸ばしていて、これが一方杉と呼ばれる名の由来だということがよくわかります。
継桜王子の前の崖下、旧国道沿いには日本名水百選のひとつ野中の清水が湧出。
近露王子から4.4km、徒歩1時間10分。
比曽原王子から1.2km、20分。
野中の清水まで車でも到達可能です。
継桜王子(野中の一方杉) | |
名称 | 継桜王子(野中の一方杉)/つぎざくらおうじ(のなかのいっぽうすぎ) |
所在地 | 和歌山県田辺市中辺路町野中 |
関連HP | なかへち町観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR紀伊田辺駅から龍神バス熊野本宮大社行きで1時間25分、野中一方杉下車、徒歩30分 |
ドライブで | 阪和自動車道南紀田辺ICから約39km |
駐車場 | 野中の清水駐車場(3台/無料)を利用 |
問い合わせ | なかへち町観光協会(熊野古道館内)TEL:0739-64-1470 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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