和歌山県伊都郡九度山町にある真田昌幸・真田信繁(真田幸村)・真田大助の真田3代を紹介する歴史博物館が、九度山・真田ミュージアム。九度山は関ヶ原合戦後、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)が蟄居させられた場所で、真田一族の苦難の歴史を紹介しています。
九度山で蟄居生活を送った真田3代を紹介
武田信玄の家臣となった真田昌幸は、信玄没後に織田信長の軍門に降り(くだり)、さらに豊臣政権下において所領の上田を安堵されます。
関ヶ原の合戦に際し、徳川家康の与力となった長男・真田信之(さなだのぶゆき)を東軍・徳川方、そして真田昌幸自身と次男の真田信繁(真田幸村)を西軍・豊臣方に分かれ、とくに真田昌幸は上田城に籠城して、徳川秀忠の関ヶ原遅参の原因をつくっています。
徳川家康から真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子には上田領没収と死罪が申し渡されますが、東軍に属した長男・真田信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山・蓮華定院(精進料理が味わえる宿坊として現存)に蟄居となりました。
真田昌幸の正室は上田に残りますが、次男である真田信繁(真田幸村)とその妻子、重臣16人は高野山に。
高野山の坊が手狭だったのか、あるいは女人禁制ということで真田信繁の妻が帯同できなかったためか(冬の寒さが厳しかったからとも)、紀州藩の許しを得て山麓の九度山に屋敷を構えます。
慶長7年(1602年)、真田信繁(真田幸村)が36歳の時、長男・真田大助が九度山で誕生。
幼少から父とともに紀の川で水練を試み、文武に励んでいたと伝えられています。
九度山での蟄居生活は厳しいもので、真田信繁(真田幸村)は、兄の真田信之に40両を送ってほしいと依頼しています。
真田昌幸も真田信之を通じて赦免運動を展開しますが、許しを得ることができず、慶長16年6月4日(1611年7月13日)に病没。
慶長17年(1612年)、真田信繁(真田幸村)は出家し、好白と名乗りますが、慶長19年(1614年)、大坂城に入城し、豊臣秀頼と運命を共にします。
真田信繁(真田幸村)の息子・真田大助は、真田信繁(真田幸村)の大坂城入城に同行し、慶長20年(1615年)、大坂落城となった大坂夏の陣で、豊臣秀頼の傍で自刃。
真田一族が蟄居していた屋敷があったのが現在の真田庵(善名称院)で、寺は屋敷跡に建てたれたと伝えられることから、真田庵(善名称院)境内にある五輪塔が、伝・真田昌幸墓所ということに。
画像協力/(公社)和歌山県観光連盟
九度山・真田ミュージアム | |
開催日時 | 真田庵(善名称院)、真田の抜け穴(真田古墳)と相互リンクをお願いします |
名称 | 九度山・真田ミュージアム |
所在地 | 和歌山県伊都郡九度山町九度山1452-4 |
関連HP | 九度山・真田ミュージアム公式ホームページ |
電車・バスで | 南海高野線九度山駅から徒歩10分 |
ドライブで | 阪和自動車道和歌山ICから約38km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 九度山・真田ミュージアム TEL:0736-54-2727/FAX:0736-54-2737 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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