山縣有朋誕生地

山縣有朋誕生地

山口県萩市川島、萩城下を流れる橋本川堤防近くにあるのが、山縣有朋誕生地(やまがたありともたんじょうち)。天保9年閏4月22日(1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村で生まれた山縣有朋。生誕地には「元帥公爵山縣有朋誕生地」と記された石碑のみが立っています。

明治の重鎮・山縣有朋は萩で生誕

山縣有朋は、足軽の家に生まれ、安政5年(1858年)、時勢を学ぶため長州藩から伊藤俊輔(後の伊藤博文)らとともに京に派遣され、尊王攘夷派の久坂玄瑞(くさかげんずい)らに感化され、萩に戻った後、吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾に学んでいます。

高杉晋作挙兵による奇兵隊に参加。
下関戦争では壇ノ浦砲台で外国艦隊に応戦していますが、敗北し、無力さを実感しています。
長州藩内の激化する派閥争い(高杉ら倒幕を目指す正義派と幕府に恭順しようとする椋梨藤太ら俗論派の対立)では、正義派ながら比較的に穏健でしたが、お互いが先鋭化するなかで、奇兵隊を掌握して高杉晋作を支援し、正義派を勝利に導いています。


のちに開国論に転じ、戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。
明治政府発足後は、徴兵令を制定、西南戦争でも中心的な存在となって西郷軍を鎮圧するなど、旧日本陸軍の中心的存在として活躍。
内務大臣、明治22年の第1次山縣内閣、日清戦争後、明治31年の第2次山縣内閣と2度の組閣を経て元老となり、大正11年2月1日、小田原の別邸・古稀庵で没。
2月9日に日比谷公園で山縣有朋の国葬が行なわれています。

巨大な山縣閥を維持し、大正デモクラシー、政党政治に対しては妨害する大きな壁ともいわれ、明治維新の立役者であるとともに、藩閥政治の中心人物だったことがよくわかります。

京都の無鄰菴(むりんあん)は、山縣有朋の別邸で、7代目・小川治兵衛の作庭による日本庭園で有名。
東京の椿山荘(ちんざんそう)は本邸の跡地です。
那須高原には、那須野が原開拓に従事した山縣農場に山縣有朋記念館が建っています。
小田原別邸の古稀庵(こきあん)には庭園が現存。

墓所は、護国寺(東京都文京区)にあります。

山縣有朋誕生地
名称 山縣有朋誕生地/やまがたありともたんじょうち
所在地 山口県萩市川島313-1
関連HP 萩市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR萩駅から萩循環まぁーるバスで、橋本町下車、徒歩1分
ドライブで 中国自動車道山口ICから約43km
駐車場 藍場川駐車場を利用
問い合わせ 萩市文化財保護課 TEL:0838-25-3299
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
山縣有朋の墓

山縣有朋の墓

東京都文京区大塚5丁目にある真言宗豊山派の大本山が護国寺。その墓地には数多くの著名人が眠っていますが、そのひとつが山縣有朋の墓(やまがたありとものはか)。山縣有朋は、最下級の萩藩士である中間(ちゅうげん)から身を起こして、明治の重鎮に。無鄰

山縣有朋記念館

山縣有朋記念館

日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」といわれる明治の元勲・山縣有朋(やまがたありとも)。山縣有朋は、殖産興業を目的に、明治19年、那須・高原山山麓(現・矢板市)に伊佐野農場(後の山縣農場)を開場。山縣有朋記念館は、山縣有朋ゆかりの洋館を記念館

松下村塾

松下村塾

萩城下の松本村(現在の萩市椿東松本)は、明治維新の精神的指導者として知られる吉田松陰(よしだしょういん)の実家、杉家があった場所。吉田松陰の叔父である玉木文之進(たまきぶんのしん)が天保13年(1842年)に開いた私塾・で松下村塾(しょうか

 

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