菊ヶ浜土塁(女台場)

菊ヶ浜土塁(女台場)

山口県萩市今魚店町、白砂の広がる菊ヶ浜の背後に幕末に築かれた沿岸防備の土塁跡が、菊ヶ浜土塁(女台場)。長州藩(萩藩)は、下関戦争の直後、武士不在の萩で、外国船の襲来に備えて菊ヶ浜に土塁を築くことを住民に命じ、工事には萩藩士の妻や女中などが動員されたため女台場(おなごだいば)と通称されています。

労働歌として『男なら』を歌いながら築かれた台場

萩市観光課公式チャンネル「はぎたび-hagi tabi-」菊ヶ浜土塁・女台場

文久3年5月10日(1863年6月25日)、長州藩(萩藩)は下関の馬関砲台から関門海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダ艦船を攻撃、攘夷(じょうい=外敵を撃ち払って断交すること)を実行します(下関事件)。
ところが半月後にアメリカ、フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃、長州藩は大損害を被ることになったのです。
元治元年(1864年)には長州藩による海峡封鎖で経済的損失が多かったイギリスがフランス、オランダ、アメリカに呼びかけて連合艦隊を結成し、長州藩の砲台などを攻撃し、大破させています。
藩はこれを機に沿岸防備の土塁を築造していますが、藩内でも攘夷派は勢いを失い、イギリスと手を結んで開国へと傾いていくのです。

菊ヶ浜土塁(女台場)は2kmほど構築されましたが、当初は6ヶ所にわたって土塁が構築され、西端の3ヶ所が現存しています。
高さ3m、幅12mの土塁が50mほど続いた丘の上に戦時下の昭和16年に建立された石碑が立っています。

実際には男女を問わずに参加したものだと推測できますが、女性の姿が目立ったため、女台場と呼ばれるようになったもの(台場と称されていますが大砲の設置はありませんでした)。
このとき幕末から明治維新後にかけて流行した甚句が士気を鼓舞するための作業歌(労働歌)として口ずさまれましたが、それが現在、山口県を代表する民謡『男なら』なのです。

昭和16年に建立された石碑は、昭和16年4月、小学校が国民学校と改称され、銃後の守りが強調された世相を反映しています(昭和16年12月8日、真珠湾攻撃、太平洋戦争突入)。

菊ヶ浜土塁(女台場)

民謡『男なら』

男なら
お槍かついで お中間となって
ついて行きたや 下関
お国の大事と聞くからは 
女ながらも武士の妻
まさかのときにはしめだすき
神功皇后さんの 雄々しい姿が 
鏡じゃないかいな オーシャリシャリ

菊ヶ浜土塁(女台場)
名称 菊ヶ浜土塁(女台場)/きくがはまどるい(あなごだいば)
所在地 山口県萩市今魚店町102-1
関連HP 萩市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで23分、女台場入口下車、徒歩2分
ドライブで 中国自動車道山口ICから約46km
駐車場 市営菊ヶ浜駐車場(無料、菊ヶ浜海水浴場開設期間は有料)を利用
問い合わせ 萩市観光課 TEL:0838-25-3139
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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