高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)

高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)

萩城下の菊屋横丁沿いに建つのが高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)。天保10年8月20日(1839年9月27日)、萩藩士大組士・高杉小忠の長男として生まれた高杉晋作。禄高200石ほどの中級武士・高杉小忠太の長男として生まれました。高杉晋作旧宅には、平屋建ての民家と自作の句碑、産湯に使った井戸などが残されています。

松下村塾でその才能を花開かせた高杉晋作の生家

高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)
高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)

高杉晋作は、藩校明倫館に通う一方で、19歳の時、長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい=長州藩での尊王攘夷派の中心人物)の勧めで松下村塾に通い始めます。
松下村塾で吉田松陰に認められ、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」といわれ、将来を嘱望されるまでになります。
安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学。

文久2年(1862年)5月、藩命で幕府使節随行員として外国に支配される清国・上海を視察し、文久3年(1863年)、下関戦争の敗北を受け長州藩の兵力の危機感を感じると、身分を問わない我が国初の軍事組織「奇兵隊」を組織し、倒幕運動の中心的存在となりました。

イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠された際には、24歳という若さで和議交渉を任されています。
「彦島の租借」を断固として拒否したことは、欧米列強の植民地化を阻んだ大英断だったいわれています。

その後、持病の肺結核が進行し、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、維新の夜明けを見ることなく29歳の若さでこの世を去っています。
慶応3年(1867年)11月の大政奉還すら高杉晋作は耳にしていません。

高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)は、座敷(6畳床間付)、次の間(6畳)、居間(6畳、4.5畳)、小室に(3畳)という間取りで、旧宅内には晋作の写真や書などを展示しています。
往時には土蔵納屋もありましたが残念ながら現存していません。

個人所有のため、見学ができる日は不定期となっているのでご注意を。

高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)
名称 高杉晋作旧宅(高杉晋作誕生地)/たかすぎしんさくきゅうたく(たかすぎしんさくたんじょうち)
所在地 山口県萩市南古萩町23
関連HP 萩市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで20分、萩城外堀入口下車、徒歩5分
ドライブで 中国自動車道山口ICから約45km
駐車場 中央公園駐車場(146台/有料)
問い合わせ 高杉晋作旧宅 TEL:0838-22-3078
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
菊屋横丁

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高杉晋作終焉の地

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