旧福原家書院

旧福原家書院

山口県萩市堀内、萩城跡(指月公園)内にある、志都岐山神社(しづきやまじんじゃ)の社務所で、萩城三の丸(堀内)にあった永代家老・福原家上屋敷の書院を移築したものが、旧福原家書院(きゅうふくばらけしょいん)。天明年間(1781年~1788年)頃の建築で、当時の萩藩重臣の住居が現存するという貴重なもの。

永代家老・福原家の書院を萩城本丸に移築

萩城(指月公園)
萩城跡(指月公園)空撮PHotoMap

萩藩永代家老・福原家は、本領の宇部など1万1314石余りを有し、萩藩の重臣として平素は萩に暮らしていました。
18世紀後半と推測される細長い建物は、寄棟造り桟瓦葺き、桁行き10.57m、梁間7.1mで、北面に桟瓦葺き(さんかわらぶき)の庇(ひさし)を設けています。
内部は、各10畳の桜の間と、紅葉の間からなり、典型的な書院造りで、江戸時代中期における重臣の住居の特徴を良く表しています。

福原家の萩上屋敷の表門も萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区(萩城三の丸)に現存。

ちなみに福原家は、毛利元春(もうりもとはる)の五男、毛利広世が備後国の守護長井氏に養子に入ったことが始まりで、戦国時代を通じて毛利氏を支え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当主・福原元俊(ふくばらもととし)が吉川広家とともに、西軍に味方した毛利輝元を諌め、結果として防長両国に押し込められたものの、長州藩の立藩につながっています。
福原広俊は加判役として手腕を発揮し、萩藩初期の混乱期を乗り切り、以降、重臣として藩を支えています。
幕末には福原元僴(ふくばらもとたけ)が禁門の変(長州藩主力軍の総大将)の責任を負って西郷隆盛の要求から自刃するという悲劇も。

旧福原家書院
名称 旧福原家書院/きゅうふくばらけしょいん
所在地 山口県萩市堀内1-1
電車・バスで JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで34分、萩城跡・指月公園入口下車、徒歩10分
ドライブで 中国自動車道山口ICから約46km
駐車場 萩市営指月第一駐車場(50台/無料)
問い合わせ 指月公園料金所 TEL:0838-25-1826
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
萩城跡(指月公園)

萩城(指月公園)

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