山口県萩市堀内、萩を流れる阿武川デルタ(橋本川は派流)の北西端の海沿いに、まるでお椀を伏せたような形状の山(標高141.8m)が、指月山(しづきやま)。日本海を見下ろすこの天然の要塞には、いざというときのための萩城の詰城(詰丸)が築かれ、城内と海上を監視する機能を有してもいました。
阿武川デルタの突端に突き出た天然の要塞は、萩城の詰丸
指月山は、阿武川デルタで結ばれる花崗岩の山で(萩城の築城の際には花崗岩が切り出されています)、1億年前に地下にあったマグマの塊です。
花崗岩の風化が進み、誕生した砂浜が美しい菊ヶ浜ということに。
永享年間(1429年〜1441年)に指月山の山麓に善福寺が開かれ、その山号が山名に。
慶長9年(1604年)になると毛利輝元(もうりてるもと)が山麓に萩城を築いた際に、山頂は詰丸(要害城)が築かれましたが、当初は陸続きではなく、間には湿地があり、天然の要害となっていました。
詰丸(要害城)は、上段の本丸(東西43.6m×南北36.4m)と下段の二の丸(東西34.5m×南北約36.4m)で構成され、外周は石垣と練塀で囲まれ、本丸に拾間矢倉、北国矢倉(角矢倉)、小矢倉(辰巳矢倉)、大矢倉(大将矢倉)、二の丸に八間矢倉、瀬戸崎矢倉(西矢倉)、山中に山中矢倉を配するという実戦的なものでした。
詰丸(要害城)には、石垣、矢倉跡、水溜め、石切り場の跡が現存し、昭和41年には城壁の一部なども復元整備され、往時をしのばせています。
また周辺の森林は、藩政時代に城内林として伐採を禁じられていたため、樹齢600年を超えると推定される巨樹も数多く残され、山頂までの登山(徒歩30分)では森林浴も可能です。
対島海流(暖流)の影響を受け、シイノキ、タブノキ、クロガネモチ、カゴノキ、イスノキ、クスノキなどが茂る暖地性原生林として貴重で、サザンカの自生北限にもなっているため、国の天然記念物に指定。
高知県で、その生息地が特別天然記念物に指定されているミカドアゲハも生息。
指月山の山麓には、萩城の鎮護のため鎮守・宮崎八幡宮、真言宗・満願寺(防府に移転)、臨済宗・洞春寺(毛利元就の菩提寺、藩庁が山口に移転するのに伴い、洞春寺は山口に移転)、仰徳社、妙玖寺など、毛利家ゆかりの寺社(神仏習合)が配されていましたが、移転しなかった寺社は明治維新後すべて廃絶されています。
萩城築城の由来
毛利隆元の嫡男として毛利氏の居城・吉田郡山城(安芸高田市)に生まれた毛利輝元は、織田信長の死後、羽柴秀吉と講和し、豊臣政権へ臣従し、領下の首都機能を有する広島城を築きますが、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦では西軍総大将となりましたが敗戦後、隠居、さらに毛利秀就が周防・長門2ヶ国を安堵される形で2国に封じられました。
こうして毛利家は、毛利輝元が本国に在国し、当主・毛利秀就は人質的に江戸に在国するという二頭体制となったのです。
周防・長門2ヶ国になった毛利輝元は、減封後は暫定的に山口の高嶺城を居城としていましたが、海上交通を利用できないなど、近世の城としては不向きのため、居城の候補地として防府の桑山(くわのやま/防府市)、山口の鴻ノ峰(こうのみね/山口市)、そして萩・指月山の3ヶ所を選び、福原広俊(ふくばらひろとし)を江戸に派遣、幕府側の本多正純(ほんだまさずみ=家康に重用された重臣)と折衝しますが、山陽道への往来が困難な北浦(日本海)に臨む指月山が選ばれました。
こうして指月山麓に本丸、二の丸、三の丸を構え、山頂に辰巳矢倉など7ヶ所の矢倉を配した詰丸(要害城)を備えた萩城が築城されたのです。
指月山(萩城・詰丸) | |
名称 | 指月山(萩城・詰丸)/しづきやま(はぎじょう・つめまる) |
所在地 | 山口県萩市堀内1-1 |
関連HP | 萩市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで34分、萩城跡・指月公園入口下車、徒歩30分で山頂 |
ドライブで | 中国自動車道山口ICから約46km |
駐車場 | 萩市営指月第一駐車場(50台/無料) |
問い合わせ | 指月公園料金所 TEL:0838-25-1826 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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