阿部、阿倍、安部、安倍などの阿部さん一族。全国に47万人ほど(シェア0.37%)の阿部さん一族が暮らしていますが、その筆頭は阿部さん、続いて安部さんで実は安倍さんはかなり少数派。そんな阿部さん一族のルーツは、飛鳥時代の古代豪族にまで遡ることができ、『日本書紀』にもその名が記される存在です。
阿部さん一族は、大彦命(おおひこのみこと)の子孫?
阿部、阿倍、安部、安倍などの阿部一族は、第8代・孝元天皇(こうげんてんのう)の皇子・大彦命(おおひこのみこと)の子孫と伝えられる古代の豪族。
大彦命は『日本書紀』に記される四道将軍(しどうしょうぐん=北陸、東海、西道、丹波に派遣された4人の将軍)のひとりで、北陸道に派遣されたとされる将軍。
ただし、西暦にあてはめると、紀元前、つまりは弥生時代のこととなり、実在性に関しては疑問符が付きます。
四道将軍の記述は、ヤマト王権が全国にその権力を伸長させる過程を記したとも推測でき、4世紀頃の王族という可能性も。
伊賀国一之宮の敢國神社(あえくにじんじゃ/三重県伊賀市一之宮)の社伝によれば、大彦命は北陸に派遣された後、伊賀国阿拝郡(あえのこおり)に定住したとしています。
敢國神社は、伊賀国に住んだ阿拝氏の祖神・大彦命を祀ったとされ、阿拝氏(阿閉氏)は後に阿閉・阿倍・安倍などとも記されるため、阿部、阿倍、安部、安倍さんの氏神にもなっているのです。
阿部さんの重要なルーツが奈良県桜井市に
阿部さんの発祥は、安倍文殊院(あべもんじゅいん)で知られる大和国十市(といち)郡阿倍が有力ですが、大和国葛下(かつらぎしも)郡阿倍や、穴石神社のある伊賀国阿拝郡、攝津国東成(ひがしなり)郡阿倍野など様々な説があり、絞ることはできません。
また、「アベ」の語源は饗(あへ)で、神をもてなす「饗へ」(あへ=神に食物を供えること)に。
そんな阿部さん、阿倍さん、安倍さんなど阿部一族のルーツを訪ねる旅で、最初に訪れるべき場所は、古代阿倍氏の一大本拠地であった、大和国十市郡阿倍(奈良県桜井市阿部)でしょう。
奈良県桜井市安倍山に建つのが日本三文殊に数えられる名刹が安倍山崇敬寺(すうきょうじ)文殊院、略して安倍文殊院です。
皇極天皇4年(645年)、大化改新(たいかのかいしん=中大兄皇子と中臣鎌子による蘇我入鹿の暗殺クーデターで始まる国政改革)の際、左大臣として登用された阿倍内麻呂(あべのうちのまろ=阿倍倉梯麻呂、娘の小足媛は孝徳天皇の妃)が氏寺として建立した安倍寺(崇敬寺)がルーツとなっています。
阿部さん一族なら、その安倍文殊院近くにある若桜神社(奈良県桜井市谷)と、その摂社(境内社)である高屋安倍神社の参拝からルーツの旅を始めましょう。
若桜神社の祭神は、大彦命の孫・伊波我加利命(いわかむつかりのみこと=磐鹿六雁命)であり、一方、大彦命が祭神である高屋安倍神社は阿部さん一族の氏神となっています。
若桜神社境内にある高屋安倍神社は、本来の鎮座地は南にある松本山だったのですが、山崩れが起きたため、若桜神社境内に遷座したと伝えられ、大化改新当時から阿部さん一族の聖地となっているのです。
壁画古墳で有名な、キトラ古墳は阿部さんのお墓!?
安倍文殊院にも参拝した後には、その南西にある明日香村のキトラ古墳も訪ねておきたい場所です。
壁画で有名なキトラ古墳は、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから阿倍内麻呂の子で、右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)の墓だともいわれているのです。
阿倍御主人とは、『竹取物語』に、かぐや姫の求婚者の一人として実名で登場する人物(阿倍御主人がかぐや姫に要求されたのは「火鼠の皮衣」)。
阿倍御主人は大宝3年(703年)4月、右大臣従二位、69歳で没しているので(『続日本紀』『公卿補任』)、8世紀初め頃に作られた円墳のキトラ古墳とは築造年代ではピッタリと一致するのです。
ルーツを訪ねる旅もキトラ古墳まで行き着くのはさすがに古代豪族がルーツの阿部さんらしいところ。
さて、飛鳥時代の阿部さん一族の歴史を整理しておくと、阿倍内麻呂はその女(むすめ)を中大兄皇子(天智天皇)と軽皇子(孝徳天皇)に嫁がせ、大化改新(大化元年=645年)で左大臣となり、古代豪族のリーダーに。
やがて、孝徳天皇と内麻呂の女との間に悲劇の主人公・有間皇子(ありまのみこ)が誕生しています(謀反を起こそうとしたとして斬首に)。
一方、一族の阿倍比羅夫(あべのひらふ)は斉明天皇4年(658年)、水軍180艘を率いて蝦夷(えみし)を討ったことで名をあげ、スキーで有名な北海道ニセコに比羅夫(倶知安町)という地名が残されますが、ここは阿倍比羅夫ゆかりの地ともいえるのです。
養老元年(717年)には、阿倍比羅夫の孫・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が遣唐留学生として唐に渡り、唐の皇帝・玄宗(げんそう)に仕えて、帰国を果たせず、唐で没しています。
平安時代中期には、有名な安倍晴明(あべのせいめい=安倍氏流土御門家の祖、系譜は不詳ですが、右大臣・阿倍御主人の子孫とも)が陰陽家として活躍、以後、天文・陰陽両道で朝廷に仕え、土御門(つちみかど)を家号としています。
また、平安時代中期の前九年の役・後三年の役には東北を支配する安倍貞任(あべのさだとう)・安倍宗任(あべのむねとう)が朝廷と対立。
さらに南北朝時代には後醍醐天皇の皇子・宗良親王(むねながしんのう)を擁して戦った諏訪神社の神家(じんけ)一党の中にも安倍氏がいました。
古代から中世には大活躍の阿部さん一族ということがよくわかります。
大名の阿部さんもチェック
続いて、大名の阿部さんもチェックしておきましょう。
古代・大和地方で栄えた阿部さんの子孫は、三河国(愛知県東部)に土着し、戦国時代、阿部忠正(あべただまさ)のとき額田郡(ぬかたぐん=矢作川の東岸で徳川家康の出身地)の桑子・小針に城を築いています。
阿部忠正の子・阿部正宣は松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)、松平広忠(まつだいらひろただ=徳川家康の父)の2代に仕え、その子・阿部正勝は、徳川家康に仕え大名・阿部氏の初代となっています。
老中となった3代・阿部重次(あべしげつぐ)は徳川家光の死に際して殉死し、5代・阿部正邦(あべまさくに)のとき備後福山藩(現在の広島県福山市)に10万石で封ぜられ、西国街道筋の譜代大名として西国諸藩を監視しました。
11代・阿部正弘(あべまさひろ)は幕末の混乱期ながら27歳で老中首座に就き、安政の改革を断行。また、分家の大名としては、白河藩(福島県)・阿部家、佐貫藩(千葉県)・阿部氏がいて、大名として近世も活躍しています。
大阪の阿部さんは阿倍王子神社へ!
阿部氏に関連した神社は、前出の高屋安倍神社のほかに、大阪市阿倍野区の阿倍王子神社がルーツとしては重要。
大阪。阿倍野の鎮守社・阿倍王子神社は、仁徳天皇の創建と伝わる阿部さん一族のルーツらしい古社(古代豪族の阿倍氏が氏寺・阿倍寺とともに、氏神として「阿倍社」を建立したという説もあります)。
大阪の阿倍野は古代大和の豪族・阿部氏が移り住んだ土地で、阿倍野という名が生まれました。
奈良時代には氏寺の阿部寺もあり、阿部さんの大切なルーツといえる地です。
王子神社というのは、平安時代、熊野信仰の「王子」(熊野権現を祀る社)で阿倍野王子となり、熊野詣の九十九王子の一つとして重要な社となったのです。
大阪で熊野信仰を今に伝える貴重な場所にもなっています。
阿部さんは東北に多く、宮城県で大姓5位
福島県大沼郡会津高田町の伊佐須美神社は、会津の地名のルーツにもなっている古社。
四道将軍の父子がそれぞれの道をたどり、東北を平定した後、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったのだから。
平安時代の陸奥の豪族・安倍氏は、四道将軍・大彦命の末裔といわれています。
京都市上京区堀川通一条上ル晴明町の晴明神社は、安倍晴明ゆかりの古社。
そして広島県福山市丸之内の阿部神社(現在は護国神社となっている)も阿部さんのルーツのひとつ。
このほか、広島県福山市丸之内の備後福山城、福島県白河市の白河小峰城、映画『のぼうの城』で注目された埼玉県行田市の忍城(おしじょう)なども阿部さん関連のスポットです。
水攻めで有名な忍城は、寛永16年(1639年)に老中・阿部忠秋(あべただあき)が入城し、近世城郭を整備しています。
四道将軍・大彦命の末裔なのか、阿部さんは東北に多く、宮城県で大姓5位(2.27%)、山形県6位、岩手県8位、秋田県と福島県で11位、ほかに徳島県でも大姓11位となっています。
代表家紋は、違い鷹の羽。他に、梶の葉、阿部銭〈六連銭〉、三両引など。
大名家の阿部家の家紋は有名な「阿部鷹の羽」と呼ばれるものですが、本家と分家の違いなどから、羽の重なりの上下が違ったり、渦や斑紋が付いたり付かなかったりしています。
阿部さんで、家紋が「阿部鷹の羽」ならこの微妙な違いからルーツを探ることもできるはず。
大名家の替紋は福山阿部家と佐貫阿部家が黒餅(こくもち)で、白河阿部家が輪紋を用いています。
日の丸は阿部家の替紋の黒餅から出たのかもしれません。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
阿部さんのルーツを探せ! | |
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