四国では登山人気の高い西赤石山(1625.8m)の西肩、標高1294mにある峠が銅山越(どうざんごえ/愛媛県新居浜市)。峠の南側は日本の近代化を支えた別子銅山の間符(まぶ)と呼ばれる坑口が密集するエリアで、元禄15年(1702年)、別子銅山の粗銅(あらどう)は、この銅山越を越えて新居浜の大江の浜へと運ばれるようになりました。
仲持が粗銅を運んだ人肩運搬路の峠
江戸時代、採掘した鉱石は、運搬夫が籠(かご)で運び出し、砕女(かなめ)小屋で砕女と呼ばれる女性達が砕く砕き、しれを谷にある炭火で溶かし(大量の木炭が必要でした)、銅分が8~9割の粗銅(あらどう)に製錬していました。
精錬された粗銅は、銅山越を越えての新道の開削で、仲持(なかもち)が人肩運搬路(険しい山道=足谷山〜弟地〜芋野仲塾〜小箱越〜勘場平中宿〜中の川〜浦山)を使って(男性で45kg、女性で30kgを担ぎ)運び出しました。
明治19年に第一通洞が開削されるまで、184年間に渡って仲持が鉱石を峠越えで運んだのです。
純度90%の粗銅は、新居浜の大江の浜まで2日かけて運搬され、船で搬出され、大坂の住友銅吹所で純度99%まで高められたのです(最終的に、棹銅の形に鋳造され、輸出用として長崎に運搬)。
さらに帰路には、別子銅山に暮らす数千人の食料や生活物資を背負って峠を越えました。
当時、別子山村は、焼窯が300、製錬所の「床屋」が数十もあり、一大製錬工場の体裁をなしていました。
山間の狭い場所に稼人とその家族など数千人が暮らす鉱山町があったのです。
粗銅の搬出には、かなりの難行苦行が想像できますが、それでも銅山越開削れ以前は小箱峠越えで、3日を要していたので、短縮ルートにはなっています。
それでも標高1294mという峠越えなので、行き倒れとなる仲持もいて、峠にある峰地蔵はそんな無縁仏を祀ったものとか。
明治時代には、旧暦の8月24日の地蔵縁日には、沿道に幟(のぼり)がはためき、子供相撲が奉納されています。
銅山越周辺の山々の木々があまり茂っていないのは、別子銅山の煙害(亜硫酸ガス)の影響と、精錬に木炭が使われたため。
明治時代以降、植林により徐々に植生が回復しつつありますが、銅山越一帯は、冬季の季節風が厳しく吹き付けるので、高山帯のような雰囲気を醸し出しています。
風衝地にツガザクラ(国の天然記念物「銅山峰のツガザクラ群落」=ツガザクラの分布南限)、アカモノといった高山植物が茂るのも、その厳しい自然環境から。
峠の北側、標高1100mの角石原(かどいしはら)には山小屋「銅山峰ヒュッテ」(4月~10月、冬季は週末のみ営業、要予約)がありますが、角石原駅〜石ケ山丈駅間を結び銅鉱石、粗銅を搬出した上部鉄道(別子鉱山鉄道/明治26年開通、第三通洞の開削で明治44年廃止)の起点駅があった場所。
銅山越 | |
名称 | 銅山越/どうざんごえ |
所在地 | 愛媛県新居浜市別子山 |
関連HP | 新居浜市公式ホームページ |
ドライブで | 松山自動車道新居浜ICから約25kmで銅山跡入口 |
駐車場 | 銅山跡入口駐車場(10台/無料) |
問い合わせ | 新居浜市観光案内所 TEL:080-8105-3641 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag