万松寺

名古屋市中区大須3丁目、万松寺(ばんしょうじ)は、1540(天文9)年に、織田信長の父、織田信秀により織田家の菩提寺として開基された古刹。曹洞宗(禅宗)・大本山總持寺の末寺で十一面観音菩薩が本尊。正式の寺号は亀嶽林山萬松寺。徳川家康が竹千代と名乗った幼少時代、人質となって暮らした寺でもあるのです。

織田信長の父、信秀が開基の寺

織田家の菩提寺である万松寺の本尊は、十一面観世音菩薩。
織田家が那古野城(後の名古屋城二の丸あたり)を居城としていた時代には、那古野城南側にあったと伝えられます。

1547(天文16)年、竹千代(徳川家康の幼名)が6歳の時に、駿河に人質として移動する際に、配下の田原城主・戸田康光の裏切りで織田信秀の元に連れ去られます。
その時3年間を過ごしたのが、当時の那古野城近くの万松寺。
ここで若き日の織田信長にも出会ったとも推測できるのです。

1549(天文18)年11月8日、竹千代(徳川家康)は、安祥城の攻撃で今川軍に捕縛された信長の兄・織田信広と笠寺観音で人質交換され、駿府城の今川義元のもとに送られます。

1552(天文21)年、信長の父・織田信秀の葬儀は万松寺で執り行なわれましたが、喪主である信長(18歳)の奇行は、うつけ者との印象を隣国にまで広めたとか(信長の戦略だったとする説もありますが定かでありません)。
信長が位牌に抹香を投げつけた事件は那古野城近くに寺があった時代のことです。

1610(慶長15)年、いわゆる清洲越しによる城下町の移転と名古屋城築城にあたり、万松寺は現在の中区錦、丸の内2、3丁目あたりから小林邑(現在の大須3丁目)に移転しています。
江戸時代には尾張徳川家の尊崇を受け、尾張藩初代藩主・徳川義直の正室、高原院(こうげんいん・春姫)の霊廟はこの万松寺に築かれました。

大正元年には大円覚典和尚が寺域の大部分を開放して大須発展に貢献しています。

境内にある不動堂には、加藤清正が命名したと伝えられる身代わり不動明王が安置されており、名古屋屈指のパワースポットになっています。

本堂には信長のからくり人形があり、10:00、12:00、14:00、16:00、18:00にからくり人形の舞を見ることが可能。

万松寺
名称万松寺/ばんしょうじ
所在地愛知県名古屋市中区大須3-29-12
関連HP万松寺公式ホームページ
電車・バスで地下鉄鶴舞線上前津駅から徒歩3分
ドライブで名古屋高速都心環状線白川ランプから約1km
駐車場600台/有料
問い合わせ万松寺 TEL:052-262-0735/FAX:052-262-2269
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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