戦国大名で、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)で知られる福島正則は、尾張国海東郡二ツ寺村(現・愛知県あま市二ツ寺屋敷)の出身。菩提寺の菊泉院の南側に、福島正則生誕地の碑が立っています。関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒を務め、安芸国・広島と備後国・鞆49万8000石を得て、広島藩主になっています。
豊臣秀吉とは従兄弟と伝えられる
永禄4年(1561年)、市兵衛正信の子として生誕(市兵衛正信は大工、あるいは桶屋だったと伝えられています)。
幼名は市松で、母は、秀吉の叔母。
甚目寺観音(じもくじかんのん)の釈迦院で読み書きを習いますが12歳のときに誤って大工を殺(あや)め、新居屋(にいや/現・あま市新居屋)の土豪・赤林掃部に助けられて、駿河(現・静岡県東部)の福島家に預けられ、その後、秀吉の配下となって、天正6年(1578年)、18歳の時、中国攻め(播磨三木城の攻撃)で初陣を果たしたと伝えられています。
このあたりは、旧美和町(平成22年、甚目寺町、七宝町と合併してあま市に)の教育委員会の資料などによるもので、秀吉に抱えられるまでの詳細は定かでありません。
福島正則生誕地の碑の西南側に生家があったと伝えられます。
豊臣秀吉の母・大政所(天瑞院)には、栄松院(小出秀政の正室)、大恩院(青木一矩の母)、松雲院(福島正則の母)という姉妹が、さらに従妹(いとこ)に聖林院(加藤清正の母)がいるというのが通説で、通説に従えば秀吉と福島正則は従兄弟(いとこ)ということに。
秀吉は親戚関係の福島正則と加藤清正を信頼し、とくに福島正則とは年齢差が24歳もあったため、当初、子供に恵まれなかったことから、我が子のように目をかけたのだと思われます。
文禄4年(1595年)、甥で後継と目されていた豊臣秀次(よとみひでつぐ)に切腹の命を伝えたのも、福島正則で、同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられ、清洲城を拝領しています。
広島藩主時代に、名古屋・堀川を開削
晩年は不遇で、信州・高井野2万5000石(現・長野県高山村)に封じられ、5年後に高井野で没しています(高山村に福島正則荼毘所跡があります)。
出身の愛知県では三英傑(信長、秀吉、家康)の陰に隠れて存在感が薄れていますが、慶長15年(1610年)の「清洲越し」(城下町の移転)、名古屋城築城の際に物資運搬路としての堀川を開削。
名古屋の発展につながった堀川開削の恩人ということで栄1丁目を流れる堀川の河畔に福島正則像が立っています。
貞享3年(1686年)刊の『武徳大成記』(徳川幕府が徳川家康の政権確立の過程を記述した書)によれば、名古屋城などの天下普請(てんかぶしん)に駆り出されることを愚痴った福島正則に対し、やはり名古屋城の築城を担当した加藤清正が、嫌なら国に帰って挙兵すればよく、それができないなら文句を言わずに働きなさいと諭したと記されますが、太平の治世では、こうした豊臣恩顧の武断派は、危険な存在になっていただろうと推測できます。
出身の愛知県での評価も、徳川治世下での疎外という影響もあるのかもしれません。
福島正則生誕地 | |
名称 | 福島正則生誕地/ふくしままさのりせいたんち |
所在地 | 愛知県あま市二ツ寺屋敷172 |
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