志賀海神社

志賀海神社

福岡市の志賀島に鎮座する志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、全国の綿津見神社(わたつみじんじゃ)、海神社(あまじんじゃ・かいじんじゃ・わたつみじんじゃ)の総本宮。代々古代日本を代表する海人族として有名な阿曇氏が祭祀を司っています。『古事記』には「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されているのです。

海人族として有名な阿曇氏が祭祀を司る志賀島の古社

信州の安曇野(穂高神社が鎮座します)、愛知県の渥美半島など全国に足跡を残す阿曇氏(安曇氏)ですが、そのルーツは志賀島・海の中道一帯。
志賀海神社の祭神は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)の綿津見三神。
神功皇后の三韓遠征では、阿曇氏(安曇氏)の祖神・阿曇磯良(あづみのいそら)が舵取りを務めたとされています。
阿曇氏の読み「あずみ・あづみ」は海津見(あまつみ)の略とも推測できるのです。

志賀島は古代から、大陸とを結ぶ海上交通の要衝で、志賀島と海の中道を拠点とした阿曇氏(安曇氏)が、玄界灘の海上を制圧していたと考えられます。

天智2年(663年)の朝鮮半島・白村江の戦いで戦死したのも阿曇氏(安曇氏)の一族、安曇比羅夫(あずみのひらふ)ですから神社の創建は神代にまで溯り、平安時代には日宋貿易の拠点に、室町時代には大内氏が独占した日明・日朝貿易も行なわれています。
鎌倉時代の元寇では、志賀島も主戦場となり、鎌倉時代後期作の『蒙古襲来絵詞』(後巻3「弘安の役」)には「志賀島大明神」として戦闘の様子が描かれています。
日明貿易に際しては航海の安全を祈願してから出航しています。

中世には、周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた大内義隆(おおうちよしたか)、毛利水軍の指揮官としても活躍した小早川隆景(こばやかわたかかげ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)、豊臣秀吉、黒田長政らの尊崇を受けています。

志賀海神社
『蒙古襲来絵詞』に描かれた志賀海神社

海人族として有名な阿曇氏が祭祀を司る志賀島の古社

志賀海神社
霊石・亀石の置かれた遥拝所。冬至には宝満山から日が昇ります

神社に現存する鍍金鐘(ときんしょう)は、朝鮮半島・高麗時代(こうらいじだい0=13世紀前半)の梵鐘で国の重要文化財(福岡市博物館に寄託)。
一の鳥居は、寛文10年(1670年)の福岡藩3代藩主・黒田光之の寄進。
次の鳥居は元禄13年(1700年)、海浜の鳥居は安永3年(1774年)の造営です。

参拝にあたっては、潮井をからだにふりかけて清め、さらに手水舎で両手と口を清めることをお忘れなく。
罪と穢(けがれ)を払ってくださる神様なので、参拝前には身を清めることが大切です。

例大祭『国土祭』(くにちさい)は、古くは旧暦9月8日(御神幸祭)・9月9日(国土祭)でしたが、現在では10月第2月曜(体育の日)とその前日に斎行されています。

ちなみに、文殊信仰が盛んだった神宮寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となっています。

志賀海神社
名称志賀海神社/しかうみじんじゃ
所在地福岡県福岡市東区志賀島877
関連HP志賀海神社公式ホームページ
電車・バスでJR西戸崎駅前から西鉄バス勝馬行きで10分、志賀島下車、徒歩10分。または、博多港ベイサイドプレイスから福岡市営渡船志賀島行きで30分、志賀島渡船場下船、徒歩30分
ドライブで九州自動車道古賀ICから約22km。または、福岡都市高速香椎浜ランプから約16km
駐車場50台/無料
問い合わせ志賀海神社 TEL:092-603-6501/FAX:092-603-6787
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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