熊本県阿蘇郡南小国町、阿蘇山の外輪山、瀬の本高原を流れる田の原川を源流に、熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れて有明海に注ぐ九州一長大な河川が筑後川。幹川流路延長は143kmで、日本第21位、流域面積2863平方キロも日本第21位の河川です。「坂東太郎」(利根川)・「四国三郎」(吉野川)と並び「筑紫次郎」とも呼ばれる暴れ川です。
源流碑が各支流に乱立している!
河川法に定める筑後川は、田の原川(たのはるがわ)、杖立川、大山川、三隈川と名を変え、ようやく夜明ダムの下流で筑後川と名乗るのが本流。
幹川流路延長143kmというのは、実はこの本流のことで、上流部の地図をみれば、牧ノ戸峠近くを源流とする小田川などなど、もっと長い支流は数あるのです。
筑後川源流碑も、平野台高原展望所(熊本県南小国町)、長者原ビジターセンター横(大分県九重町)、竜岩自然の家横(福岡県筑紫野市)、高取山公園(佐賀県神埼市)などなど、九重山系、阿蘇山系、耳納山系、筑紫山系、脊振山系、三郡連山と各山系すべてに筑後川源流碑が立てられています。
河川法でいう筑後川源流、つまりは田の原川源流には、源流碑がなく、最も近い平野台展望所(源流部を眺望できます)に源流碑が配されています。
田の原川は、有名な黒川温泉を流れ、その上流部近くには清流の森、すずめ地獄などもあります。
河口部にはデ・レーケ堤、筑後川昇開橋も
筑後川は上流域に日田市、中流域に久留米市、鳥栖市、そして下流域に大川市、佐賀市などの主要都市があり、流域内人口は100万人を越えています。
筑後川の古名は、千年川(ちとせがわ)、一夜川などで、藩政時代には筑前、筑後の両国の中間を流れていたところから築間川と呼ばれ、公式に筑後川と呼称されるようになったのは、寛永13年(1636年)のこと。
「筑間川改め筑後川と称すべき」という徳川幕府の命が下ったのだとか。
川の名を決めるのに老中が関わっていたということが久留米藩の郷士・石原為平の『石原家記』に記されています。
久留米藩(筑後国)が、幕府に筑後川に改名をと密かに訴えていたのかもしれません。
そんな江戸時代には、筑前国(福岡県西部)、筑後国(福岡県南部)、肥前国(佐賀県、壱岐・対馬を除く長崎県)、豊後国(宇佐市・中津市を除く大分県)の境界を流れるため、国境防備を理由に、橋が架けられることはありませんでした。
暴れ川だったため、各藩は治水に頭を悩ませ、寛政2年(1791年)には、古賀百工が中流域の筑後川を斜めに堰き止める、日本で唯一の石張堰である山田堰(現・福岡県朝倉市/国際かんがい排水委員会の「かんがい施設遺産」登録、土木学会土木遺産認定)を築き、堀川用水の取水口になっています。
近代の土木工事としては、明治政府がオランダ人技師ヨハニス・デ・レ-ケを招き、明治23年、河口部(現・福岡県大川市)に完成した若津港導流堤(筑後川導流堤、デ・レ-ケ堤)が知られています。
有明海は干満の差が大きく、筑後川の河口では土砂の堆積が多かったので、若津港(筑後地方の海の玄関口)の航路を確保するため、導流堤を築いたもの。
引き潮の時だけ、今も姿を現わします。
筑後川河口(大川市)には、昭和10年、国鉄佐賀線の可動橋として完成した筑後川昇開橋があり、国の重要文化財に指定されています。
ちなみに筑後川の河口近くの吉野ヶ里丘陵に国の特別史跡「吉野ヶ里遺跡」があるのも、筑後川の水運がその背景にあったと推測できます(縄文海進時には、現在より内陸に河口がありました)。
筑後川源流・瀬の本高原(田の原川源流)|熊本県南小国町
山田堰|福岡県朝倉市
筑後川河口|福岡県柳川市、佐賀県佐賀市
筑後川 | |
名称 | 筑後川/ちくごがわ |
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