関門連絡船通路跡

関門連絡船通路跡

福岡県北九州市門司区、「門司港レトロ地区」の玄関駅・JR門司港駅近くにあるのが、関門連絡船通路跡。明治34年、鉄道連絡船としての関門連絡船が開業、最盛期の昭和16年には1日53往復して年間880万人を運びました。門司港駅と門司港の桟橋を結んだ100mほどの地下道の跡が、関門連絡船通路跡です。

関門連絡船の桟橋と門司港駅改札を結んだ地下道の跡

かつて本州と北海道には青函連絡船、四国との間に宇高連絡船、そして九州との間に関門連絡船という鉄道連絡船が鉄道省(後に国鉄、JR)が運航していました。
関門航路に関しては明治34年5月27日、山陽本線の前身となる山陽鉄道が運航を開始した歴史ある航路で、その前身としては子会社の山陽汽船商社が明治31年9月1日、徳山港〜馬関港(現・下関港)〜門司港を結ぶ鉄道連絡船・門徳連絡船を運航開始し、神戸〜徳山を結ぶ急行列車に接続していました。
明治34年5月27日、馬関駅(現・下関駅)まで山陽鉄道が延伸し、門徳連絡船を廃止し、関門連絡船がスタートしたのです。

九州側は九州鉄道が明治24年4月1日、門司駅(現・門司港駅)まで延伸。
7月1日には熊本〜門司駅が開通、明治39年には門司〜八代、門司〜長崎に急行列車の運転が始まり、関門連絡船の需要も大幅に伸びていました。

明治39年12月1日、鉄道国有法の施行により山陽鉄道が国有化され、関門連絡船も鉄道省の管理下に。

鉄道連絡船や橋では、戦時下に攻撃の対象となるということで、関門鉄道トンネルが敷設され、昭和17年7月1日、貨物列車の運行が開始、さらに昭和17年11月15日には旅客列車も走るようになったため、運航回数をそれまでの53往復から30往復に減便。
昭和33年、関門国道トンネルが開通したことを受けて、貨物、旅客輸送は急激に減少し、昭和39年10月31日に廃止されています。

鉄道省が初の新造船として大正3年に就航させた「門司丸」で256.2t、乗客定員691名と青函連絡船に比べると海峡の幅も短く、貨車の積載もなかったため、小型の船舶でした。

関門連絡船通路は、現在は通り抜けはできませんが、内部に「関門連絡船通路跡」の看板と連絡船の写真が飾られています。
また監視孔が開けられていますが、これは第二次世界大戦末期に、門司港を利用する外国航路で上陸した不審者を監視するための窓で、軍の命令で設置されたもの。


関門航路関連遺産(車両航送発祥の地碑、下関鉄道桟橋跡碑、JR門司港駅、関門連絡船通路跡)として経済産業省の近代が産業遺産(「鉄道連絡船の歩みを物語る近代化産業遺産群」)にも認定。

関門連絡船通路跡
名称 関門連絡船通路跡/かんもんれんらくせんつうろあと
所在地 福岡県北九州市門司区西海岸1-5-31
ドライブで 関門自動車道門司港ICから約2.3km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
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